「徒然」大賞
古語で「徒然」とは、現代語に訳すると「物思いに耽る」という意味があります。吉田兼好の「徒然草」は鎌倉時代後期の随筆集として有名です。そこで、障がい者やそのご家族および障がい者支援に携わっている方々が、日頃感じている想いを気の向くままに表現していただき、それを発表していただくことを目的としたものが「徒然」大賞となります。
第三回「徒然」大賞応募要項
応募資格 | ①障がいを持っている方およびそのご家族どなたでも。 ②障がい者支援に携わってる方どなたでも。 (会員の方でなくても応募可能です) |
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応募内容 | 当事者(障がい者)やそのご家族および障がい者支援に携わっている方の日頃から感じている想いを気の向くままに書いていただけたら結構です。文字数は特に定めておりませんが、目安として2,000文字程度ぐらいまでと、お考え頂けたらと思います。 |
応募期間 | 令和5年6月1日~令和5年8月31日 |
応募方法 | 下記の「応募する」から応募して下さい。内容はWord文書、テキスト文書のどちらかを添付ファイル(10MB以内)として送信して下さい。 |
発表時期 | 令和4年10月頃 |
発表場所 | 当ホームページ内で①当事者(ご家族)および②支援者別に「最優秀賞」「優秀賞」を発表させて頂きます。 |
賞品 | [最優秀賞] 賞状、副賞:賞金(10,000円) [優秀賞] 賞状、副賞:賞金(3,000円) |
注意事項 |
①応募された作品の著作権は応募者に帰属しますが、当協会が応募作品を使用することを許可することとします。また、協会誌に掲載させて頂くことがあります。 ②選考基準等に関しては、一切お答えできませんのでご了承下さい。 ③応募者多数の場合は、締め切り前でも締め切らせて頂く場合があります。 ④所定の応募方法以外での応募に関しましては、選外とさせていただきます。 ⑤一旦、応募された作品はキャンセルすることはできません。 ⑥お電話での、お問い合せはお答えすることができません。 ⑦お名前、住所の所に本名、実在の住所を入力しておられない場合は、入賞した場合でも賞状、副賞は送付する事はできません。 ⑧住所の欄に事業所の住所を記入している場合は、住所欄に事業所名を入れる等工夫して下さい。送付したものが返送されてきた場合でも再送はできません。 |
第二回「徒然」大賞結果発表
応募総数:74通
支援者部門 | 最優秀賞:後藤 里奈 様(東京都) 優秀賞:ET 様(神奈川県) |
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当事者部門 | 最優秀賞: びーんず 様(愛知県) 優秀賞:宮村 孝博 様(三重県) |
(令和4年6月1日~令和4年8月31日)
支援者部門
最優秀賞
後藤 里奈 様(東京都)
私が教師として最初に赴任した学校は、「サポート校」という特殊な学校だった。発達障がいや不登校など様々な悩みを持つ生徒が、高校卒業の資格を得るために通う所だ。私はもともと中学・高校の英語教員を目指していたが、「いろいろな生徒と関われる方がやりがいがある」と思い、その学校への就職を決めたのだ。
しかし、当然のことながら理想と現実は違う。「子供達に学ぶ楽しさを伝えたい。」と意気込んでいた私だったが、初めて関わる生徒達を前に、ただただ戸惑うばかりだった。私の勤務校では特に発達障がいの生徒が多く、コミュニケーションが取れない子や突発的な言動をする子など、新米教師の私には手に負えないような生徒がクラスに何人もいた。発達障がいについての知識が何もなかった私は、彼らと、どう接してよいか分からず、思い悩む日々が続いた。
そんな生徒達との距離を縮められないまま一年経ったある時、私は上司の先生から、水泳部の顧問をやらないかと提案された。私は学生時代から水泳をやっており、教員になって水泳部の顧問になることは一つの夢だったため、喜んで引き受けた。
新入部員も加わり、活動内容をどうするか考えていた頃、新たにもう一人部員が入ってきた。しかしその生徒は弱視というハンディキャップがあり、水泳も初心者だった。水泳は一歩間違えば命に係わる危険なスポーツだ。自分に指導ができるか不安はあったが、せっかく入部を決意してくれた彼女の気持ちを尊重することにした。
練習初日、まずはウォーミングアップとしてプール内を歩いてみた。水中を歩くだけとはいえ、プールに入るのも初めてで目も見えない彼女にとっては恐怖だったのだろう。手取り足取り誘導し、なんとか他の生徒の倍の時間をかけて歩ききった。しかし、いよいよ泳ぎの練習に入るとハードルはさらに上がった。ビート板を持たせて体を支え、水に浮く感覚を覚えてもらおうとするも、「怖い!できない!助けて!」と連呼され、私は困り果てた。他の部員達も彼女に泳ぎ方を教えようとしてくれたが、「そんな教え方じゃ分からない。どうすればいいの?」と何度も言われるうち、うんざりしてしまったようだ。
そしてそんな状況が続いたある日、事件が起こった。私が部員達に飛び込みを教えていた時のこと、「ドボン」という大きな音とともに悲鳴が聞こえた。なんと、見学していたはずの弱視の彼女が自分からプールに飛び込んだのだ。幸いケガはなかったが、突然の出来事に辺りは騒然となった。すぐに練習を中止し、なぜそんな危険なことをしたのか彼女に尋ねても、固く口を閉ざしたきり何も答えてくれない。そしてその日以来、彼女は練習に来なくなってしまった。「一瞬でも目を離していた私の責任だ。やはり自分には顧問の資格などない…。」私はそう自分を責め、教師を辞めることも考え始めた。
ところが数ヶ月後、水泳部の部室を通りかかった時、誰もいないはずの部屋に人影が見えた。見るとそこには、小さな肩を震わせ、声を殺して泣いているあの彼女がいた。その姿を見た瞬間、私は頭を強く打たれたようなショックを受けた。私は彼女に泳ぎを教えているつもりで、実のところはまったく彼女と真剣に向き合っていなかったのだ。相手の立場になって想像することなく、無意識に健常者の「当たり前」を押し付けていたのだ。彼女は目が見えない分、そんな私のいい加減な態度を敏感に感じとっていたのだろう。だが、彼女はまだ水泳をやりたいのだ。その気持ちに何とかして応えなくてはいけない。
その日、私は一人でプールへ行き、初めて目を閉じて泳いでみた。水中で手足を動かしてみるも、まったく進んでいる気がしない。距離感がつかめず、壁にぶつかるのではないかと不安になる。息継ぎのタイミングも分からなくなり、たまらず立ち止まって目を開けると、プールが海のように広く感じた。
翌日、私は部員達にも同じことをさせてみた。すると彼女達も「見えない」ということがこんなにも怖いことなのだと初めて分かったようだった。その後、私は休部中の彼女を説得し、水泳部に戻って来てもらった。私達は今までの彼女に対する接し方を反省し、より具体的な言葉で泳ぎ方を伝えるようになった。それから二年後―。彼女はついにクロールで二十五メートルを完泳した。仲間の歓声と拍手に包まれ見せてくれた、嬉しそうな笑顔は今でも忘れられない。
障がいとは「害」ではなく、互いに補い合い、助け合っていけば克服できるものなのだ。相手に寄り添い、理解しようとすることの大切さを教えてくれた彼女との出会いは、私の財産である。
しかし、当然のことながら理想と現実は違う。「子供達に学ぶ楽しさを伝えたい。」と意気込んでいた私だったが、初めて関わる生徒達を前に、ただただ戸惑うばかりだった。私の勤務校では特に発達障がいの生徒が多く、コミュニケーションが取れない子や突発的な言動をする子など、新米教師の私には手に負えないような生徒がクラスに何人もいた。発達障がいについての知識が何もなかった私は、彼らと、どう接してよいか分からず、思い悩む日々が続いた。
そんな生徒達との距離を縮められないまま一年経ったある時、私は上司の先生から、水泳部の顧問をやらないかと提案された。私は学生時代から水泳をやっており、教員になって水泳部の顧問になることは一つの夢だったため、喜んで引き受けた。
新入部員も加わり、活動内容をどうするか考えていた頃、新たにもう一人部員が入ってきた。しかしその生徒は弱視というハンディキャップがあり、水泳も初心者だった。水泳は一歩間違えば命に係わる危険なスポーツだ。自分に指導ができるか不安はあったが、せっかく入部を決意してくれた彼女の気持ちを尊重することにした。
練習初日、まずはウォーミングアップとしてプール内を歩いてみた。水中を歩くだけとはいえ、プールに入るのも初めてで目も見えない彼女にとっては恐怖だったのだろう。手取り足取り誘導し、なんとか他の生徒の倍の時間をかけて歩ききった。しかし、いよいよ泳ぎの練習に入るとハードルはさらに上がった。ビート板を持たせて体を支え、水に浮く感覚を覚えてもらおうとするも、「怖い!できない!助けて!」と連呼され、私は困り果てた。他の部員達も彼女に泳ぎ方を教えようとしてくれたが、「そんな教え方じゃ分からない。どうすればいいの?」と何度も言われるうち、うんざりしてしまったようだ。
そしてそんな状況が続いたある日、事件が起こった。私が部員達に飛び込みを教えていた時のこと、「ドボン」という大きな音とともに悲鳴が聞こえた。なんと、見学していたはずの弱視の彼女が自分からプールに飛び込んだのだ。幸いケガはなかったが、突然の出来事に辺りは騒然となった。すぐに練習を中止し、なぜそんな危険なことをしたのか彼女に尋ねても、固く口を閉ざしたきり何も答えてくれない。そしてその日以来、彼女は練習に来なくなってしまった。「一瞬でも目を離していた私の責任だ。やはり自分には顧問の資格などない…。」私はそう自分を責め、教師を辞めることも考え始めた。
ところが数ヶ月後、水泳部の部室を通りかかった時、誰もいないはずの部屋に人影が見えた。見るとそこには、小さな肩を震わせ、声を殺して泣いているあの彼女がいた。その姿を見た瞬間、私は頭を強く打たれたようなショックを受けた。私は彼女に泳ぎを教えているつもりで、実のところはまったく彼女と真剣に向き合っていなかったのだ。相手の立場になって想像することなく、無意識に健常者の「当たり前」を押し付けていたのだ。彼女は目が見えない分、そんな私のいい加減な態度を敏感に感じとっていたのだろう。だが、彼女はまだ水泳をやりたいのだ。その気持ちに何とかして応えなくてはいけない。
その日、私は一人でプールへ行き、初めて目を閉じて泳いでみた。水中で手足を動かしてみるも、まったく進んでいる気がしない。距離感がつかめず、壁にぶつかるのではないかと不安になる。息継ぎのタイミングも分からなくなり、たまらず立ち止まって目を開けると、プールが海のように広く感じた。
翌日、私は部員達にも同じことをさせてみた。すると彼女達も「見えない」ということがこんなにも怖いことなのだと初めて分かったようだった。その後、私は休部中の彼女を説得し、水泳部に戻って来てもらった。私達は今までの彼女に対する接し方を反省し、より具体的な言葉で泳ぎ方を伝えるようになった。それから二年後―。彼女はついにクロールで二十五メートルを完泳した。仲間の歓声と拍手に包まれ見せてくれた、嬉しそうな笑顔は今でも忘れられない。
障がいとは「害」ではなく、互いに補い合い、助け合っていけば克服できるものなのだ。相手に寄り添い、理解しようとすることの大切さを教えてくれた彼女との出会いは、私の財産である。
優秀賞
ET 様(神奈川県)
「ゆっくりと、じっくりと」
僕は、この仕事が嫌いだった。
障がい者をあまり身近に感じることなく、僕は育った。将来は障がい者支援に携わろう、などといった気持ちを抱いたこともなかった。でも、まるで運命に引き寄せられるかのように、僕は気が付くと障がい者と関わる仕事に就いていた。本当にやりたい仕事ではなかった。どちらかといえば割に合わないし、つらいこともたくさんある。「なぜ自分はここに?」何度そう思ったことだろう。いつでもやめようと思っていた。
“こんな毎日に意味はあるんだろうか。自分にとっても、利用者のみんなにとっても。”
そう思っていた。僕は、この仕事が嫌いだった。
でも、あるとき、あるひとりの利用者が、就職が決まった報告と一緒に、こんな言葉を僕にくれた。
“〇〇さんがいなかったら、どうなっていたかわかりません。感謝しています。”
この言葉は、いまも僕の胸に大切に仕舞われている。
僕のしている仕事の成果は、決して数字に表れない。そう簡単に変化も起こらない。いつも通りの日常を、いつも通りの人々と、いつも通りに過ごす毎日だ。生産的であること、効率的であることが求められる現代社会において、僕らの毎日ははたから見れば、非生産的で、非効率的なのかもしれない。
でも、僕はいま、信じている。僕が、何気ない日常の中で、悩み苦しむ「あの人」にかける言葉が、接する態度が、さりげないほほえみが、きっと、ゆっくりと、じっくりと、「あの人」のこころをやわらげるのだと。そしてその柔らかいこころから、きっといつか、希望の芽が生え、花が咲くのだと。そしてそれこそが、実はなによりも「生産的」なのではないか。
生産性と効率化が叫ばれる現代社会の中で、障がい者という存在は、最も小さな、社会の片隅に生きる存在かもしれいない。けれども、彼らは生きている。彼らはたしかにこの社会に存在している。障がいをその身に負ったのは、彼らの責任ではない。しかし、その障がいゆえに負ったたくさんの苦しみと傷を抱えて、彼らは生きている。もし、僕がこの仕事に就くことがなかったら、彼らの存在は、僕には見えなかったかもしれない。いや、見て見ぬふりをしたかもしれない。「障がい者」という「言葉」だけが宙ぶらりんに、ぼんやりと頭に一応収められているだけ、だっただろう。でも、いま僕の眼の前に、彼らは生きている。そのような彼らに関わり、寄り添い、共に生きるとき、僕は、この仕事に、決して「生産性」という尺度だけでは測れない、無限の価値を感じるのだ。毎日毎日繰り返しやってくる、代り映えのない日常のなかに、僕は、決してほかの仕事では味わうことのできないであろう、静かな喜びを味わうのだ。
僕は、この仕事に、このようなやりがいを見出している。嫌なこと、つらいこともある。それに、利用者のためにいくら頭をひねり、手足を動かし、よりより支援のために頑張っても、おそらく自分の給料が増えるわけではない。反対に言えば、最低限のことだけをしていれば、手を抜いて楽に仕事をしていても、給料が減るわけでもない。けれど、僕は思う。すぐには実を結ばなくとも、すぐに報われなくても、いつか僕が関わる誰かが、僕らとともに生きるこんな日常を通して、少しでも幸せな、よりより人生へと向かってくれれば、僕はそれで満足だと。それが僕の、いまの仕事であり、使命であると。(もちろん、給料もアップしたら、それはそれでうれしい。)
僕の、仕事に対する不平や不満は、こうしていまある環境への感謝に変わった。 僕は今、(なんとなくはっきりと言うのは少し照れくさいけれど、)こう言える。
僕は、この仕事が、好きだ。
僕は、この仕事が嫌いだった。
障がい者をあまり身近に感じることなく、僕は育った。将来は障がい者支援に携わろう、などといった気持ちを抱いたこともなかった。でも、まるで運命に引き寄せられるかのように、僕は気が付くと障がい者と関わる仕事に就いていた。本当にやりたい仕事ではなかった。どちらかといえば割に合わないし、つらいこともたくさんある。「なぜ自分はここに?」何度そう思ったことだろう。いつでもやめようと思っていた。
“こんな毎日に意味はあるんだろうか。自分にとっても、利用者のみんなにとっても。”
そう思っていた。僕は、この仕事が嫌いだった。
でも、あるとき、あるひとりの利用者が、就職が決まった報告と一緒に、こんな言葉を僕にくれた。
“〇〇さんがいなかったら、どうなっていたかわかりません。感謝しています。”
この言葉は、いまも僕の胸に大切に仕舞われている。
僕のしている仕事の成果は、決して数字に表れない。そう簡単に変化も起こらない。いつも通りの日常を、いつも通りの人々と、いつも通りに過ごす毎日だ。生産的であること、効率的であることが求められる現代社会において、僕らの毎日ははたから見れば、非生産的で、非効率的なのかもしれない。
でも、僕はいま、信じている。僕が、何気ない日常の中で、悩み苦しむ「あの人」にかける言葉が、接する態度が、さりげないほほえみが、きっと、ゆっくりと、じっくりと、「あの人」のこころをやわらげるのだと。そしてその柔らかいこころから、きっといつか、希望の芽が生え、花が咲くのだと。そしてそれこそが、実はなによりも「生産的」なのではないか。
生産性と効率化が叫ばれる現代社会の中で、障がい者という存在は、最も小さな、社会の片隅に生きる存在かもしれいない。けれども、彼らは生きている。彼らはたしかにこの社会に存在している。障がいをその身に負ったのは、彼らの責任ではない。しかし、その障がいゆえに負ったたくさんの苦しみと傷を抱えて、彼らは生きている。もし、僕がこの仕事に就くことがなかったら、彼らの存在は、僕には見えなかったかもしれない。いや、見て見ぬふりをしたかもしれない。「障がい者」という「言葉」だけが宙ぶらりんに、ぼんやりと頭に一応収められているだけ、だっただろう。でも、いま僕の眼の前に、彼らは生きている。そのような彼らに関わり、寄り添い、共に生きるとき、僕は、この仕事に、決して「生産性」という尺度だけでは測れない、無限の価値を感じるのだ。毎日毎日繰り返しやってくる、代り映えのない日常のなかに、僕は、決してほかの仕事では味わうことのできないであろう、静かな喜びを味わうのだ。
僕は、この仕事に、このようなやりがいを見出している。嫌なこと、つらいこともある。それに、利用者のためにいくら頭をひねり、手足を動かし、よりより支援のために頑張っても、おそらく自分の給料が増えるわけではない。反対に言えば、最低限のことだけをしていれば、手を抜いて楽に仕事をしていても、給料が減るわけでもない。けれど、僕は思う。すぐには実を結ばなくとも、すぐに報われなくても、いつか僕が関わる誰かが、僕らとともに生きるこんな日常を通して、少しでも幸せな、よりより人生へと向かってくれれば、僕はそれで満足だと。それが僕の、いまの仕事であり、使命であると。(もちろん、給料もアップしたら、それはそれでうれしい。)
僕の、仕事に対する不平や不満は、こうしていまある環境への感謝に変わった。 僕は今、(なんとなくはっきりと言うのは少し照れくさいけれど、)こう言える。
僕は、この仕事が、好きだ。
当事者部門
最優秀賞
びーんず 様(愛知県)
「金魚姫」
私のお母さんは、歩き方が他の人と少し違う。「その事」を理解したのは、私が小学四年生の頃だった。その日私は、お母さんと一緒にショッピングセンターに出かけていた。
お母さんはいつも、ロングスカートをはいている。私はお母さんのロングスカート姿が大好きだ。なぜなら、お母さんが歩くたびにスカートのすそがユラユラと揺れて、まるで金魚の尾ビレのようで、とてもキレイだからだ。お母さんの前を歩いていた私は、子ども服売り場の前で立ち止まり、
「ロングスカートをはいてみたい。」
と言った。お母さんは少し困ったような顔をした。それから、
「走るときに、足がもつれちゃうよ。」
と答えた。
「うーん、確かに走りにくそうだね。」
お母さんは私の手を握り、ゆっくりと歩き出した。けれど、少し歩いたところで、お母さんは私の手をパッと離した。どうしたんだろうとお母さんの顔を覗き込もうとしたが、長い髪に隠れて表情が見えない。するとお母さんから小さな声が聞こえた。
「お母さんのこと、恥ずかしいかな?」
突然の質問に私は戸惑った。何のことだろうというのが率直な感想だった。
「私の歩き方って変わっているから…。」
そう続いたお母さんの言葉を聞き、私はようやく気が付いた。「お母さんは、脚に障がいを持っているんだ」と。
それは私にとって、ただの「お母さん」から「障がいを持つお母さん」に変わった瞬間だった。
私は黙り込んだ。心臓がドクン、ドクンと響く。はたして、お母さんが障がいを持っていることは、悲しむべきことなのか。周りの人には隠すべきことなのか。子どもながらに一生懸命頭を働かせたが、自分の気持ちはすぐには分からなかった。
お母さんと私は向かい合い、お互いの目を見つめた。いつも笑顔を絶やさない、まるで太陽のようなお母さんの目が、少しだけ光っているのが見えた。なんだかお母さんがお母さんじゃなく見えて、私は胸がキュッとなった。
きっと今までお母さんは、私と並んで歩くことに、悩んだり苦しんだりしていたのだろう。そしていつもは好きな服を買ってくれるお母さんが、私にロングスカートは買ってくれなかったのは、私には元気に走り回ってほしかったからなのだろう。ずっと一緒に生きてきたのに、私はそんなお母さんの気持ちに気づいてあげられなかったことが、とても悔しかった。
だから今、私がやるべきことは、自分の素直な気持ちを言葉にして、お母さんとの人生に向き合うことだ。
お母さんのことが恥ずかしい?
「そんなこと、思ったことない。」
それが、私から出た素直な言葉だった。
それを聞いて、お母さんは少し驚いた顔をした。お母さんがずっと悩んできたことを、私は「そんなこと」で終わらせてしまったからだ。でも私にとってはそうだった。
やはりお母さんは、私の「お母さん」でしかない。何も恥ずかしくないし、家族をまっすぐに愛してくれる、自慢のお母さんだ。
見つめ続ける私に、お母さんはやさしく微笑んだ。その顔を見て私も笑顔になると、私はお母さんの手を握り、一緒に歩き出した。
それからお母さんは、私に昔のことを話してくれるようになった。
お母さんは子供の頃にケガをして、脚が上手く動かなくなったこと。マラソンの授業でクラスメイトから笑われて、とても悲しかったこと。水泳が得意だということ。勉強はとても頑張ったこと。そして、お父さんがお母さんと出会った時、ケガのことを「そんなこと」と全く気にしていなかったこと…。
今まで知らなかった「お母さん」の人生を教えてもらえて、私はとても嬉しかった。
そしてお母さんは今、パソコン教室の講師をしている。ある時、私もその教室に参加した。お母さんは、脚の形が分かるパンツスタイルで、あちこちで手を挙げる生徒のために教室中を駆け回っていた。皆から先生、先生と呼ばれているお母さんの姿を見ていると、私はとても誇らしい気持ちになった。
今、皆の前にいる、キラキラとした笑顔の「金魚姫」は、私にとっては「お母さん」、生徒にとっては「先生」なのだ。
美しく、のびのびと泳ぐこの「金魚姫」の姿は、私の生涯のあこがれだ。
私のお母さんは、歩き方が他の人と少し違う。「その事」を理解したのは、私が小学四年生の頃だった。その日私は、お母さんと一緒にショッピングセンターに出かけていた。
お母さんはいつも、ロングスカートをはいている。私はお母さんのロングスカート姿が大好きだ。なぜなら、お母さんが歩くたびにスカートのすそがユラユラと揺れて、まるで金魚の尾ビレのようで、とてもキレイだからだ。お母さんの前を歩いていた私は、子ども服売り場の前で立ち止まり、
「ロングスカートをはいてみたい。」
と言った。お母さんは少し困ったような顔をした。それから、
「走るときに、足がもつれちゃうよ。」
と答えた。
「うーん、確かに走りにくそうだね。」
お母さんは私の手を握り、ゆっくりと歩き出した。けれど、少し歩いたところで、お母さんは私の手をパッと離した。どうしたんだろうとお母さんの顔を覗き込もうとしたが、長い髪に隠れて表情が見えない。するとお母さんから小さな声が聞こえた。
「お母さんのこと、恥ずかしいかな?」
突然の質問に私は戸惑った。何のことだろうというのが率直な感想だった。
「私の歩き方って変わっているから…。」
そう続いたお母さんの言葉を聞き、私はようやく気が付いた。「お母さんは、脚に障がいを持っているんだ」と。
それは私にとって、ただの「お母さん」から「障がいを持つお母さん」に変わった瞬間だった。
私は黙り込んだ。心臓がドクン、ドクンと響く。はたして、お母さんが障がいを持っていることは、悲しむべきことなのか。周りの人には隠すべきことなのか。子どもながらに一生懸命頭を働かせたが、自分の気持ちはすぐには分からなかった。
お母さんと私は向かい合い、お互いの目を見つめた。いつも笑顔を絶やさない、まるで太陽のようなお母さんの目が、少しだけ光っているのが見えた。なんだかお母さんがお母さんじゃなく見えて、私は胸がキュッとなった。
きっと今までお母さんは、私と並んで歩くことに、悩んだり苦しんだりしていたのだろう。そしていつもは好きな服を買ってくれるお母さんが、私にロングスカートは買ってくれなかったのは、私には元気に走り回ってほしかったからなのだろう。ずっと一緒に生きてきたのに、私はそんなお母さんの気持ちに気づいてあげられなかったことが、とても悔しかった。
だから今、私がやるべきことは、自分の素直な気持ちを言葉にして、お母さんとの人生に向き合うことだ。
お母さんのことが恥ずかしい?
「そんなこと、思ったことない。」
それが、私から出た素直な言葉だった。
それを聞いて、お母さんは少し驚いた顔をした。お母さんがずっと悩んできたことを、私は「そんなこと」で終わらせてしまったからだ。でも私にとってはそうだった。
やはりお母さんは、私の「お母さん」でしかない。何も恥ずかしくないし、家族をまっすぐに愛してくれる、自慢のお母さんだ。
見つめ続ける私に、お母さんはやさしく微笑んだ。その顔を見て私も笑顔になると、私はお母さんの手を握り、一緒に歩き出した。
それからお母さんは、私に昔のことを話してくれるようになった。
お母さんは子供の頃にケガをして、脚が上手く動かなくなったこと。マラソンの授業でクラスメイトから笑われて、とても悲しかったこと。水泳が得意だということ。勉強はとても頑張ったこと。そして、お父さんがお母さんと出会った時、ケガのことを「そんなこと」と全く気にしていなかったこと…。
今まで知らなかった「お母さん」の人生を教えてもらえて、私はとても嬉しかった。
そしてお母さんは今、パソコン教室の講師をしている。ある時、私もその教室に参加した。お母さんは、脚の形が分かるパンツスタイルで、あちこちで手を挙げる生徒のために教室中を駆け回っていた。皆から先生、先生と呼ばれているお母さんの姿を見ていると、私はとても誇らしい気持ちになった。
今、皆の前にいる、キラキラとした笑顔の「金魚姫」は、私にとっては「お母さん」、生徒にとっては「先生」なのだ。
美しく、のびのびと泳ぐこの「金魚姫」の姿は、私の生涯のあこがれだ。
優秀賞
宮村 孝博 様(三重県)
「私の400の宝物」
まず私の事を説明をすると、脳性麻痺のアテトウゼ型で、簡単に言うと赤ちゃんが手足をばたばたさせているのと同じで、頭の中は47歳の男性ですが運動機能は生後半年で食事もトイレも介助が要ります。
私は生まれた時から親が障がいを隠す事無くどこでも連れてってくれた事もあり、車椅子なので別に人とは少し違うけれど恥ずかしいとかの気持ちがあまり意識せずに育ちました。
私が29歳の頃、父が亡くなったときの話を書くと、そのころは父が全部介助をしてくれていたので、絶望的で困った母が役所へ電話して取りあえず週一回デイサービスに行く事になり、これが初の福祉サービス利用でした。それで相談員に色々相談した事が私の人生を変えました。
それから1年位経ち暮らしが落ち着いてくると何かしたくなり、足や声で動くパソコンを探してと相談員に頼んだら、伝の心と言うパソコンを探してくれて、伝の心と言うパソコンは呼吸で操作が出来るのでホームページやメールが出来るようになり世界が変わりました。自分は良い相談員に恵まれて、自分でも無理っぽいと思いながらこの人なら何とかしてくれると思って話せる、信頼してた相談員がいたので今があると思います。
自分はそのころは何も知らないから、残された能力と福祉用具と福祉サービスを使って無理と思ってた事が出来、出来そうだとわかるとすぐに事業所や役所に交渉してくれて、今思うと感謝です。
次に、自立生活体験室に行った話を書くと、その自立生活体験室を運営している事業所の理事長が、重度障がい者で生まれつきの脳性麻痺で、アテトウゼ型で在宅で一人暮らしをしていて自立生活体験室とは、障がい者が自立するためヘルパーさんを利用しながら短期間の間、暮らして自立生活プログラムに基づいた自己決定、自己選択、自己決断を実戦をするところで、私が行ったときは出来て二ヶ月で、行くと重度訪問介護制度を使ってヘルパーさんと在宅で一人暮らしをしている事業所の理事長がヘルパーさんと一緒に出迎えてくれました。
一度あって聞きたい事があったので色んな話をして、理事長は私の母校の17年前の大先輩で当時は歩けたけど、頚椎をやられて二次障がいが出てくる人が多く今は車椅子で、話しをしていると何で施設に行かずに暮らせたのか不思議になってきて、昔はヘルパーさんもいないしどうしたの?と尋ねると、ボランティアを集めて介助をしてもらってたまにボランティアの人が来るのを忘れると、朝トイレにボランティアの人が座らしてくれて次のボランティアの人が来るまで座って過ごすけれどボランティアの人が来ないと一日中トイレで座って過ごした話や、ボランティアの人が集まっても重度障がい者が自立生活をするには難しかった時代で、行政と戦った話や自らヘルパーさんを探して事業所を作った話しをしてくれました。
理事長と出会った事が自立生活体験室を利用するきっかけになったし、今後の生活を決めるにも私に似た障がいの人が自立生活が出来るのがわかった事が大きくて、理事長と出会う前は母が介助できなくなったら施設入所しか頭になかったけれど、障がいがあっても自分が決めた暮らし(自分らしく生きれる)ことに気が付きました。
私は理事長と出会い、障がいがあるからこそできる事がやりたくなり、ヘルパー研修の講師や県の職員の研修で障がい当事者の思いを伝える活動をやりたくなりライターとして障がいに関する記事を書いたり、ユニバーサルデザインを広めるために団体を立ち上げて地元の学校の授業に行ったり、普段は施設にはあまり行かずに、ヘルパーさんと地域の囲碁サークルに行き、どう囲碁を打つか書くと番号があり言うとヘルパーさんが置いてくれます。
後は買い物や散歩や車や電車やバスで、ヘルパーさんと旅に出たりして私の暮らしにはヘルパーさんが欠かせないです。私の47年間を振り返ると、介助してくれた人が今までに数えると400人以上いてこれが私の宝物でこれだけの人たちに支えられて幸せで、色んな事があったけれど今は良い思い出で障がい者も悪くないと思っています。
まず私の事を説明をすると、脳性麻痺のアテトウゼ型で、簡単に言うと赤ちゃんが手足をばたばたさせているのと同じで、頭の中は47歳の男性ですが運動機能は生後半年で食事もトイレも介助が要ります。
私は生まれた時から親が障がいを隠す事無くどこでも連れてってくれた事もあり、車椅子なので別に人とは少し違うけれど恥ずかしいとかの気持ちがあまり意識せずに育ちました。
私が29歳の頃、父が亡くなったときの話を書くと、そのころは父が全部介助をしてくれていたので、絶望的で困った母が役所へ電話して取りあえず週一回デイサービスに行く事になり、これが初の福祉サービス利用でした。それで相談員に色々相談した事が私の人生を変えました。
それから1年位経ち暮らしが落ち着いてくると何かしたくなり、足や声で動くパソコンを探してと相談員に頼んだら、伝の心と言うパソコンを探してくれて、伝の心と言うパソコンは呼吸で操作が出来るのでホームページやメールが出来るようになり世界が変わりました。自分は良い相談員に恵まれて、自分でも無理っぽいと思いながらこの人なら何とかしてくれると思って話せる、信頼してた相談員がいたので今があると思います。
自分はそのころは何も知らないから、残された能力と福祉用具と福祉サービスを使って無理と思ってた事が出来、出来そうだとわかるとすぐに事業所や役所に交渉してくれて、今思うと感謝です。
次に、自立生活体験室に行った話を書くと、その自立生活体験室を運営している事業所の理事長が、重度障がい者で生まれつきの脳性麻痺で、アテトウゼ型で在宅で一人暮らしをしていて自立生活体験室とは、障がい者が自立するためヘルパーさんを利用しながら短期間の間、暮らして自立生活プログラムに基づいた自己決定、自己選択、自己決断を実戦をするところで、私が行ったときは出来て二ヶ月で、行くと重度訪問介護制度を使ってヘルパーさんと在宅で一人暮らしをしている事業所の理事長がヘルパーさんと一緒に出迎えてくれました。
一度あって聞きたい事があったので色んな話をして、理事長は私の母校の17年前の大先輩で当時は歩けたけど、頚椎をやられて二次障がいが出てくる人が多く今は車椅子で、話しをしていると何で施設に行かずに暮らせたのか不思議になってきて、昔はヘルパーさんもいないしどうしたの?と尋ねると、ボランティアを集めて介助をしてもらってたまにボランティアの人が来るのを忘れると、朝トイレにボランティアの人が座らしてくれて次のボランティアの人が来るまで座って過ごすけれどボランティアの人が来ないと一日中トイレで座って過ごした話や、ボランティアの人が集まっても重度障がい者が自立生活をするには難しかった時代で、行政と戦った話や自らヘルパーさんを探して事業所を作った話しをしてくれました。
理事長と出会った事が自立生活体験室を利用するきっかけになったし、今後の生活を決めるにも私に似た障がいの人が自立生活が出来るのがわかった事が大きくて、理事長と出会う前は母が介助できなくなったら施設入所しか頭になかったけれど、障がいがあっても自分が決めた暮らし(自分らしく生きれる)ことに気が付きました。
私は理事長と出会い、障がいがあるからこそできる事がやりたくなり、ヘルパー研修の講師や県の職員の研修で障がい当事者の思いを伝える活動をやりたくなりライターとして障がいに関する記事を書いたり、ユニバーサルデザインを広めるために団体を立ち上げて地元の学校の授業に行ったり、普段は施設にはあまり行かずに、ヘルパーさんと地域の囲碁サークルに行き、どう囲碁を打つか書くと番号があり言うとヘルパーさんが置いてくれます。
後は買い物や散歩や車や電車やバスで、ヘルパーさんと旅に出たりして私の暮らしにはヘルパーさんが欠かせないです。私の47年間を振り返ると、介助してくれた人が今までに数えると400人以上いてこれが私の宝物でこれだけの人たちに支えられて幸せで、色んな事があったけれど今は良い思い出で障がい者も悪くないと思っています。
第二回「徒然」大賞 全作品集
応募全作品集は、正/賛助会員専用ページ で見ることができます。正会員および賛助会員でない方は、寄付のお願い から、500円以上寄付して頂いた方に送付させていただきます。お問い合せ欄に【第二回「徒然」大賞 全作品集 希望】とお書きください。
第一回「徒然」大賞結果発表
応募総数:239通
支援者部門 | 最優秀賞:わらわら 様(兵庫県) 優秀賞:ちゅんた 様(静岡県) |
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当事者部門 | 最優秀賞: こうちゃん 様(東京都) 優秀賞:みゆ 様(大阪府) |
(令和3年3月1日~令和3年4月30日)
支援者部門
最優秀賞
わらわら 様(兵庫県)
「友だちって」
娘が小学校に入学を機に引っ越しをした。母子ともに近所に親しい友人がいない中、最初に知り合ったのが彼だった。家が近所で通学団が一緒。同じクラスで出席番号が前後という縁。引っ込み思案の娘はすぐに打ち解け仲良くなった。けれども、学校でずっと一緒にいられない。なぜなら彼は特別支援学級に籍を置き、一緒に受けられない授業もあったからだ。
初めての授業参観の日。私は、給食の時間から参観をした。娘の隣には娘と仲良しの彼の姿があった。その彼は配膳の際に着ていたエプロンを畳み、袋の中に入れようとしている。けれども、なかなか上手に入れることが出来ない。私がやきもきしている中、隣にいる娘は知らん顔だった。
授業が終わり、家に帰って来た娘に尋ねてみた。「なぜ、助けなかったのか? 気がつかなかったのか?」と。娘はあっけらかんと返答をした。「気がついていたよ。でも、一生懸命自分の力でやろうとしているから、私が手伝ったらよくない。」と。さらに言葉を重ねた。「助けてほしければ、助けてほしいと自分から言うでしょ。」と。世の中には、「助けてほしい。」と自ら発信することが難しいことも多い。けれでも、娘と彼の関係を考えると、娘の言い分にも納得ができる。
月日は経ち、二人は中学生になった。同じ中学校に入学したものの、小学校時代に比べて、彼は特別支援学級で授業を受けることが多くなった。けれども、二人の親しい間柄は続いていた。
ある日、娘は技術の授業で取り組んでいるラジオ作りがなかなか進まず、居残りをすることになった。「(そそっかしい性格の娘のことが)心配だから。」と彼が娘の居残りに付き合ってくれた。娘のラジオ作りに手を貸すわけではないが、娘にとっては心強かっただろう。
時折、先生が特別支援学級の生徒のがんばりを、披露することがある。その話を娘が私にするとき、娘はきまって言う。「確かにすごいことだと思う。でも、私たちにとっては当たり前にできること。わざわざ披露するべきことなのだろうか。あえて披露することで、支援学級の生徒だからという特別感が生まれ、差別につながるのではないか。」
娘は小学生の時から、彼が支援学級に在籍することや、級友と同じ取り組むができないことに気がついていた。彼が皆と同じようにできないことは「事情があるから」と娘は捉えてきた。人は誰しも何がしか人に言えない「事情」を抱えている。あえてその事情を知る必要がないと娘は言う。
現在、娘たちは中学3年生になった。男女や障害の有無関係なしの、娘と彼の関係を長年見てきた私は、二人の関係から学ぶことが多かった。おそらく、高校は一緒の所へ行くには難しいだろう。けれども、この友情はいつまでもいつまでも続いてほしいと願っている。
娘が小学校に入学を機に引っ越しをした。母子ともに近所に親しい友人がいない中、最初に知り合ったのが彼だった。家が近所で通学団が一緒。同じクラスで出席番号が前後という縁。引っ込み思案の娘はすぐに打ち解け仲良くなった。けれども、学校でずっと一緒にいられない。なぜなら彼は特別支援学級に籍を置き、一緒に受けられない授業もあったからだ。
初めての授業参観の日。私は、給食の時間から参観をした。娘の隣には娘と仲良しの彼の姿があった。その彼は配膳の際に着ていたエプロンを畳み、袋の中に入れようとしている。けれども、なかなか上手に入れることが出来ない。私がやきもきしている中、隣にいる娘は知らん顔だった。
授業が終わり、家に帰って来た娘に尋ねてみた。「なぜ、助けなかったのか? 気がつかなかったのか?」と。娘はあっけらかんと返答をした。「気がついていたよ。でも、一生懸命自分の力でやろうとしているから、私が手伝ったらよくない。」と。さらに言葉を重ねた。「助けてほしければ、助けてほしいと自分から言うでしょ。」と。世の中には、「助けてほしい。」と自ら発信することが難しいことも多い。けれでも、娘と彼の関係を考えると、娘の言い分にも納得ができる。
月日は経ち、二人は中学生になった。同じ中学校に入学したものの、小学校時代に比べて、彼は特別支援学級で授業を受けることが多くなった。けれども、二人の親しい間柄は続いていた。
ある日、娘は技術の授業で取り組んでいるラジオ作りがなかなか進まず、居残りをすることになった。「(そそっかしい性格の娘のことが)心配だから。」と彼が娘の居残りに付き合ってくれた。娘のラジオ作りに手を貸すわけではないが、娘にとっては心強かっただろう。
時折、先生が特別支援学級の生徒のがんばりを、披露することがある。その話を娘が私にするとき、娘はきまって言う。「確かにすごいことだと思う。でも、私たちにとっては当たり前にできること。わざわざ披露するべきことなのだろうか。あえて披露することで、支援学級の生徒だからという特別感が生まれ、差別につながるのではないか。」
娘は小学生の時から、彼が支援学級に在籍することや、級友と同じ取り組むができないことに気がついていた。彼が皆と同じようにできないことは「事情があるから」と娘は捉えてきた。人は誰しも何がしか人に言えない「事情」を抱えている。あえてその事情を知る必要がないと娘は言う。
現在、娘たちは中学3年生になった。男女や障害の有無関係なしの、娘と彼の関係を長年見てきた私は、二人の関係から学ぶことが多かった。おそらく、高校は一緒の所へ行くには難しいだろう。けれども、この友情はいつまでもいつまでも続いてほしいと願っている。
優秀賞
ちゅんた 様(静岡県)
「ハンカチ記念日」
10年前の2011年3月11日、東日本大震災が起きました。
11日後の3月22日、大学を卒業しました。
働くということが怖くて怖くて、社会人とて責任ある仕事に就くのが怖くて怖くて、「社会人になりたくない。」「学生の方肩書きに守られていたい。」とボヤきました。
形だけの就職活動の末、初めて「内定」を貰った会社に入社し、牛乳を売る仕事をしました。
「大学まで出たのにもったいない。」といろんな人に言われました。
息を潜める思いでした。何か失敗するたびに「やっぱり自分はダメなんだ。どこかおかしいのだろうか?普通と違うのだろうか?」と自分の危うさを色濃く感じました。だから、マウントを取られてもなすがまま、「凹む」以外の選択肢を持っていませんでした。
大学を出てからの10年間で、5回以上転職を繰り返しました。
その度にハローワークに通い就職活動をして、貯金を切り崩したり…etc.で生活費に当ててなんとか凌いできました。
親には穏やかで無い心情にさせました。
「仕事にやりがいを感じています。」とか「仕事が楽しいです。」とかそんな言葉は自分には縁遠く「綺麗事」にしか聞こえませんでした。
時折、テレビで見かける「プロフェッショナル仕事の流儀」に出ている人たちや、本当に生き生きと仕事に取り組んでいる人達の姿は強烈にカッコ良くて羨ましくて、同時に縁遠く思えました。
2年前に今の会社に就職し、就労移行事業所の支援員としてのお仕事がスタートしました。
職場の人間関係に恵まれて、ずいぶん呼吸が楽になりました。
上手くいかない時も、声をかけてもらいフォローしてもらう中で、「チームワークアレルギー」が少しずつ軽減されてきました。
経験したことのなかった業務にも、たくさん挑戦させていただきました。
今までの失敗経験を、いつの間にか笑い話のネタにして利用者さんに語るようになってきました。
ものすごく高い志を持っていた訳ではないけれど、「自分の仕事が誰かの役に立っている。」ということがようやく、血の通った実態のあるものとして感じられるようになってきました。
失敗することがゼロになった訳ではないし、自分がスーパー優秀人間に生まれ変わったわけでもないです。思い通りにいかなくてイライラしたりもするし、要領悪くて周りに迷惑かけてしまうこともあります。「自分の危うさ」とか恐怖の感覚がふとした瞬間に覆い被さってくることもたまにあります。
ここ1年の間に、視力の衰え、ほうれい線の定着、白髪の増員も見られ、職場のトイレで鏡を見るたびに吐息で鏡と気分を曇らせました。
親兄弟友人知人にこぼした愚痴は数知れず。SNSに弱音をこぼすこともしばしば…。頭の中で子供っぽい泣き言を吐いたり、富士山を噴火させたりしたことも数知れず。
でも、また次の朝には起き上がって、出社して、職場の電気をつけて加湿器の水を取り替えて、スタッフとミーティングして、利用者を迎え入れて…。
そうして、2年3ヶ月と9日経ったある日、利用者のTさんからお手紙とハンカチをいただきました。
Tさんはこの3月に就職が決まり、今はビルメンテナンス事業を行っている会社で事務職として勤務されています。私も就職活動の支援で関わりがあった方です。
10年前は働くことが怖くて仕方なかった自分が、今は人様の就労をサポートする仕事をしているなんて、しかも、こんなふうにお手紙とハンカチをいただく日が来るなんて…。なんとも感慨深い気持ちになりました。
神様はこうやって唐突に「ご褒美の瞬間」を与えてくれる。
Tさん、就職おめでとう。でも、ここからがスタートだよね。まだまだひよっこ支援員だけど、これからもワタクシが伴走いたしますよ!
10年前の2011年3月11日、東日本大震災が起きました。
11日後の3月22日、大学を卒業しました。
働くということが怖くて怖くて、社会人とて責任ある仕事に就くのが怖くて怖くて、「社会人になりたくない。」「学生の方肩書きに守られていたい。」とボヤきました。
形だけの就職活動の末、初めて「内定」を貰った会社に入社し、牛乳を売る仕事をしました。
「大学まで出たのにもったいない。」といろんな人に言われました。
息を潜める思いでした。何か失敗するたびに「やっぱり自分はダメなんだ。どこかおかしいのだろうか?普通と違うのだろうか?」と自分の危うさを色濃く感じました。だから、マウントを取られてもなすがまま、「凹む」以外の選択肢を持っていませんでした。
大学を出てからの10年間で、5回以上転職を繰り返しました。
その度にハローワークに通い就職活動をして、貯金を切り崩したり…etc.で生活費に当ててなんとか凌いできました。
親には穏やかで無い心情にさせました。
「仕事にやりがいを感じています。」とか「仕事が楽しいです。」とかそんな言葉は自分には縁遠く「綺麗事」にしか聞こえませんでした。
時折、テレビで見かける「プロフェッショナル仕事の流儀」に出ている人たちや、本当に生き生きと仕事に取り組んでいる人達の姿は強烈にカッコ良くて羨ましくて、同時に縁遠く思えました。
2年前に今の会社に就職し、就労移行事業所の支援員としてのお仕事がスタートしました。
職場の人間関係に恵まれて、ずいぶん呼吸が楽になりました。
上手くいかない時も、声をかけてもらいフォローしてもらう中で、「チームワークアレルギー」が少しずつ軽減されてきました。
経験したことのなかった業務にも、たくさん挑戦させていただきました。
今までの失敗経験を、いつの間にか笑い話のネタにして利用者さんに語るようになってきました。
ものすごく高い志を持っていた訳ではないけれど、「自分の仕事が誰かの役に立っている。」ということがようやく、血の通った実態のあるものとして感じられるようになってきました。
失敗することがゼロになった訳ではないし、自分がスーパー優秀人間に生まれ変わったわけでもないです。思い通りにいかなくてイライラしたりもするし、要領悪くて周りに迷惑かけてしまうこともあります。「自分の危うさ」とか恐怖の感覚がふとした瞬間に覆い被さってくることもたまにあります。
ここ1年の間に、視力の衰え、ほうれい線の定着、白髪の増員も見られ、職場のトイレで鏡を見るたびに吐息で鏡と気分を曇らせました。
親兄弟友人知人にこぼした愚痴は数知れず。SNSに弱音をこぼすこともしばしば…。頭の中で子供っぽい泣き言を吐いたり、富士山を噴火させたりしたことも数知れず。
でも、また次の朝には起き上がって、出社して、職場の電気をつけて加湿器の水を取り替えて、スタッフとミーティングして、利用者を迎え入れて…。
そうして、2年3ヶ月と9日経ったある日、利用者のTさんからお手紙とハンカチをいただきました。
Tさんはこの3月に就職が決まり、今はビルメンテナンス事業を行っている会社で事務職として勤務されています。私も就職活動の支援で関わりがあった方です。
10年前は働くことが怖くて仕方なかった自分が、今は人様の就労をサポートする仕事をしているなんて、しかも、こんなふうにお手紙とハンカチをいただく日が来るなんて…。なんとも感慨深い気持ちになりました。
神様はこうやって唐突に「ご褒美の瞬間」を与えてくれる。
Tさん、就職おめでとう。でも、ここからがスタートだよね。まだまだひよっこ支援員だけど、これからもワタクシが伴走いたしますよ!
当事者部門
最優秀賞
こうちゃん 様(東京都)
「兄が教えてくれたこと」
「一日中、天井を見ているくらいなら、死んだ方がマシだ。」
兄は7年前に難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症し、去年天国へ旅立った。
ALSは全身の機能が失われる過酷な病気。進行とともに、手足はまったく動かなくなり、やがて話をしたり、呼吸をするための機能も失ってしまう。そのままだったら死を避けられないが、医学や療養環境の進歩で「選択」ができるようになった。死ぬか、それとも人工呼吸器を使って生きるか。
「生きていて欲しい。」
両親は涙ながらに言った。しかし兄は難色を示した。実際、人工呼吸器をつけて生き延びたとしても、その先には、何層もの険しい壁が待ち構える。たとえば、全身の機能を失っても、脳の機能はまったく正常という壁。痛み、かゆみ、暑さ、寒さ、すべての感覚があるのに、これらの苦痛に、自分ではどう対処することもできない。
かゆいところを、かけないというだけでも、どれだけの苦痛か、想像を絶するものだろう。
さらに介護の負担という壁もある。24時間の介護が必要となれば、経済的、物理的、そして精神的にも、言い尽くせないほどの問題が浮上する。
それでも、生きていて欲しいと願うのは身勝手だろうか。兄の命は家族の命であり、兄がいないと私たちの心も生きられない。だから祈った。願った。「少しでも、長く…。」と。
しかし翌月、兄の介護を担っていた母が急逝した。突然の別れに、家族はしばらく言葉を失った。だが入院中だった兄は、葬儀にすら参列できず、病院のベッドで、ただひとり涙に暮れていた。手足の動かない身体では、涙を拭うことも、手を合わせることもできない。
「もう一日中、天井を見ているのはつらい。お袋のところへ行きたい。」
葬儀後、兄ははじめて自分の意志を訴えた。兄にとって母の死は、死ぬほどつらく、生きることも、また、死ぬほどつらかったのだ。
結局兄の意思を尊重し、人工呼吸器の装着は断念した。残されたわずかな時間。文字盤から読み取る言葉で、兄の苦しみは全部理解できないし、 ましてや痛みを取り除けるわけでもない。やがて、兄はほとんど、話すこともできなくなり、呼吸麻痺が強くなった。
「兄ちゃん、ごめん。」
私は泣いた。だけど兄も泣いた。扉の向こうでは、父が泣いていた。みんな、みんな、苦しかった。
亡くなる前日のこと。入浴を済ませた兄が、皆を呼んで欲しいと言い出した。今、考えると兄は死期を感じ取っていたのかもしれない。家族が全員揃うと、兄はタンスの方へ目をやった。手紙だ。
そこには、兄の字でこう綴られていた。
「まわりの人たちすべてにお世話になり、ありがとうございました。」
途端に父が泣き崩れ、弟たちは天を仰いだ。兄は最期の最期まで、感謝の気持ちを忘れなかった。
一般的に延命治療をしない場合、兄のように死期は早まる。だけどそれは、必ずしも病気に負けたわけではない。たとえ難病にかかっても、どう生きたいかの明確な意思を持ち、感謝の気持ちを持ち続けた人間は「病気を克服して人生をまっとうした。」と言える気がする。
人生は長さじゃない。中身でもない。“感謝”だ。
兄は、そう教えてくれた。
「一日中、天井を見ているくらいなら、死んだ方がマシだ。」
兄は7年前に難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症し、去年天国へ旅立った。
ALSは全身の機能が失われる過酷な病気。進行とともに、手足はまったく動かなくなり、やがて話をしたり、呼吸をするための機能も失ってしまう。そのままだったら死を避けられないが、医学や療養環境の進歩で「選択」ができるようになった。死ぬか、それとも人工呼吸器を使って生きるか。
「生きていて欲しい。」
両親は涙ながらに言った。しかし兄は難色を示した。実際、人工呼吸器をつけて生き延びたとしても、その先には、何層もの険しい壁が待ち構える。たとえば、全身の機能を失っても、脳の機能はまったく正常という壁。痛み、かゆみ、暑さ、寒さ、すべての感覚があるのに、これらの苦痛に、自分ではどう対処することもできない。
かゆいところを、かけないというだけでも、どれだけの苦痛か、想像を絶するものだろう。
さらに介護の負担という壁もある。24時間の介護が必要となれば、経済的、物理的、そして精神的にも、言い尽くせないほどの問題が浮上する。
それでも、生きていて欲しいと願うのは身勝手だろうか。兄の命は家族の命であり、兄がいないと私たちの心も生きられない。だから祈った。願った。「少しでも、長く…。」と。
しかし翌月、兄の介護を担っていた母が急逝した。突然の別れに、家族はしばらく言葉を失った。だが入院中だった兄は、葬儀にすら参列できず、病院のベッドで、ただひとり涙に暮れていた。手足の動かない身体では、涙を拭うことも、手を合わせることもできない。
「もう一日中、天井を見ているのはつらい。お袋のところへ行きたい。」
葬儀後、兄ははじめて自分の意志を訴えた。兄にとって母の死は、死ぬほどつらく、生きることも、また、死ぬほどつらかったのだ。
結局兄の意思を尊重し、人工呼吸器の装着は断念した。残されたわずかな時間。文字盤から読み取る言葉で、兄の苦しみは全部理解できないし、 ましてや痛みを取り除けるわけでもない。やがて、兄はほとんど、話すこともできなくなり、呼吸麻痺が強くなった。
「兄ちゃん、ごめん。」
私は泣いた。だけど兄も泣いた。扉の向こうでは、父が泣いていた。みんな、みんな、苦しかった。
亡くなる前日のこと。入浴を済ませた兄が、皆を呼んで欲しいと言い出した。今、考えると兄は死期を感じ取っていたのかもしれない。家族が全員揃うと、兄はタンスの方へ目をやった。手紙だ。
そこには、兄の字でこう綴られていた。
「まわりの人たちすべてにお世話になり、ありがとうございました。」
途端に父が泣き崩れ、弟たちは天を仰いだ。兄は最期の最期まで、感謝の気持ちを忘れなかった。
一般的に延命治療をしない場合、兄のように死期は早まる。だけどそれは、必ずしも病気に負けたわけではない。たとえ難病にかかっても、どう生きたいかの明確な意思を持ち、感謝の気持ちを持ち続けた人間は「病気を克服して人生をまっとうした。」と言える気がする。
人生は長さじゃない。中身でもない。“感謝”だ。
兄は、そう教えてくれた。
優秀賞
みゆ 様(大阪府)
「イチゴパフェとわたし」
朝起きるのが辛い。それでも、やることが決まっていれば、布団から起きると決めている。朝は目覚め、夜には眠たくなるのが、人間の体内システムとして正常なのだが、体質的にそのシステムが存在していない場合、意識的に改善に取り組むことでしか社会生活に馴染めない。深夜に訪れるはずの眠気と戦って、午後二時前、なんとか、我が家の台所にたどり着く。冷蔵庫を開け、前もって買っておいたクリームチーズを取り出す。銀の包み紙を、ぺりぺりとめくる心地よさが、少しずつやる気を引き出してくれる。今日はいちごパフェを作ると決めた日だ。
我が家は4人家族である。父と母とわたし、それから妹。妹は現在、奈良に住んでいるのだが時折実家に帰ってくる。彼女は2月にバレンタインデーのチョコレートを販売していた。百貨店の地下で多忙に働いて、期待以上の活躍が認められた彼女は、大量の収穫を手に入れ、プレゼントやお土産を携えて、先月帰ってきた。わたしにプレゼントされた高級チョコレートは、とろけるように甘く美味しかった。このお礼に、日頃の感謝の気持ちも込めて、何か良いものをあげたいと思った。
とはいえ、わたしには、相当な品を買える持ち合わせがない。働こうにも働けず、現在は就労移行支援事業所に通い、生活リズムを調整する毎日を送っている。そこでわたしが思いついたのが、いちごパフェを手作りすることだった。その何日か前に寝つけずに、夜中に見た動画で女の子がいちごパフェを作っていた。女の子がパフェを作る。これほど柔らかで愛らしい繊細な創作活動は、ごく限られているのではないだろうか。と、いちごパフェ作りは、わたしの僅かな乙女心をくすぐったのである。いちごは母に買ってきてもらい、ほかの材料は、概ね近所のスーパーで安くそろえた。百円均一ショップでプラスチックの容器も購入し、本格的なパフェづくりの準備は整えた。
些細なことで体調と気分が、大きく左右するわたしにとって活動するというのはなかなか難しい。それでも材料はあるし、妹は明日に来る予定だ。作るには今しかない。とりあえず、クリームチーズをガラスのボウルに移して、常温で柔らかくすることにした。他の材料と容器も出しておく。ああ、用意だけでも疲れた。ここから二時間半、わたしは、人生初のパフェ作りに向けて、体力が回復するまで待機することになる。この日は午前中晴れ、午後からは小雨。天気の急変で頭がぼうとする。薄暗闇の中を大きな重たい帽子を被って、手探りで歩いているような気分である。頻繁に体力と脳のキャパシティは、太平洋ほど欲しい、そうすれば働けるのに、働いていれば京都の洒落たカフェで、優雅なアフタヌーンティーを嗜みたい…などと考えてしまう。しかし、今のわたしに金銭的余裕もなければ、感染症の蔓延する、このご時世ではいろいろと憚られる。
わたしは実現不可能な空想から離脱すべく、テレビの電源をつけた。この時間帯はよくワイドショーが放送されている。つまらない世の中を映しては騒ぎ立てるだけの番組としか思えないのは未熟なのだろうか。高齢になれば面白く感じられるものなのだろうか。今は録画した古いアニメの再放送が割に合うような気がする。もちろん、アニメばかりを観て、のんきに過ごすわけにもいかない。すぐ自立できなくとも、わたしは今できることをして、進まなくてはならないのだ。時折、焦りや不安も感じるが他に方法はない。息抜きができたら次に進み、また少し立ち止まって進むことの繰り返しだ。
テレビをぼんやり眺めているうちに、体力と気力が戻ってきた。夕方、わたしは再び台所へ向かう。これからがいよいよ、本格的な作業だ。室温に戻したクリームチーズに、レモン汁と砂糖を加えて混ぜ合わせる。…少しかたい。電子レンジでほんの一瞬だけ温めるが、結局、室温で冷えてかたまってしまう。まだ春の初め、肌寒さが残る。クリームチーズは、多少ねっとりとしていた方が好みなので、かためでも、まあよしとしよう。それから生クリームを冷蔵庫から取り出して泡立てる。冷えていた方が、ツノの立ちやすい美味しいホイップになる。乳製品をできるだけ控えているため、豆乳の生クリームを使った。味見すると、あまりにもあっさりとしすぎている。どうやら砂糖を入れ忘れたらしい。料理というのは難しいなと、砂糖を加えつつ思う。手間暇を惜しまず、手順通りにやっていくのは、簡単そうで抜けがちだ。しかも、意外と思い通りにはならない。何かを創ることに必ず付きまとう「思ってたんと違う。」という感覚を忘れてはならない。材料の準備が出来れば、いよいよ盛りつけの作業に入る。コーンフレークを器の底に敷いてクリームを絞り、薄く切ったいちごを飾っていくのだ。ところが、この作業がまさしく「思ってたんと違う。」難しさ。いちごの水分を拭き忘れると、滲んでしまう、断面をよく観察していないと、形が歪んで美しくできない、クリームにいちごを押しつけ過ぎると、いちごが隠れてしまう。そんなこんなの失敗で、初手は辛うじて形ばかりのものが出来上がる。それでも、二つ、三つと作り続ければ上達して愉しくもなってくる。すべて作り終えた後には、ささやかな達成感と洗い物が残る。動画で見たお料理上手な女の子には敵わないが、遠目で見るとある程度の良いものが仕上がった。
それにしても、パフェとはこれほどまでに、可愛らしかっただろうか。人類で初めてパフェを作った人は、一体どのような心持だったのだろう。わたしと同じように感動しただろうか、それとも、次はもっとうまく作ってやると意気込んだだろうか。低めのグラスに盛ったパフェは、なんだか不格好で味見ついでに腹の中へ収めてしまった。程よい酸味のクリームチーズ、あっさりした豆乳のホイップ、パリパリとした食感のコーンフレークは、主役の宝石のような小ぶりのいちごの甘酸っぱさを引き立たせ、それぞれが、口の中で共鳴し心地よい調和を生んでいる。美味しい。ホイップが緩んでしまったが、まあ許容範囲内。今度は、もっとしっかりと泡立ててみようと、もう既に、次のことまで考えてしまっている。作るまでは、パフェなんて値段の割に合わない、安直な食べ物だと思っていた。ここまで奥深いデザートだと、分かるとお店のパフェも食べてみたくなる。限られた体力、気力、そして限られた時間を使って出来た傑作のパフェたちを、冷蔵庫の中にそっと入れた。明日、妹に食べてもらうために。
翌日、手作りパフェは大好評だった。妹は美味しいと言って食べてくれた上に写真まで撮ってくれた。母も気に入ってくれて、ぺろりとたいらげていた。父は「喫茶店で、売れるのじゃないか。」とにこにこしながら言った。こうして、家族で同じ話題で盛り上がって和んでいると、この幸せを感じられることも、今のうちなのかもしれないと思った。時がたてばいろいろなことが変わる。みんなで良い方向に変わっていきたい。最近は、自分の作ったもので、人を感動させる仕事がしてみたいと思うようになった。今までのように誰かの望む人生ではなく、自分が本当に生きたい道へ日進月歩、今日も、わたしは何かを創る。
朝起きるのが辛い。それでも、やることが決まっていれば、布団から起きると決めている。朝は目覚め、夜には眠たくなるのが、人間の体内システムとして正常なのだが、体質的にそのシステムが存在していない場合、意識的に改善に取り組むことでしか社会生活に馴染めない。深夜に訪れるはずの眠気と戦って、午後二時前、なんとか、我が家の台所にたどり着く。冷蔵庫を開け、前もって買っておいたクリームチーズを取り出す。銀の包み紙を、ぺりぺりとめくる心地よさが、少しずつやる気を引き出してくれる。今日はいちごパフェを作ると決めた日だ。
我が家は4人家族である。父と母とわたし、それから妹。妹は現在、奈良に住んでいるのだが時折実家に帰ってくる。彼女は2月にバレンタインデーのチョコレートを販売していた。百貨店の地下で多忙に働いて、期待以上の活躍が認められた彼女は、大量の収穫を手に入れ、プレゼントやお土産を携えて、先月帰ってきた。わたしにプレゼントされた高級チョコレートは、とろけるように甘く美味しかった。このお礼に、日頃の感謝の気持ちも込めて、何か良いものをあげたいと思った。
とはいえ、わたしには、相当な品を買える持ち合わせがない。働こうにも働けず、現在は就労移行支援事業所に通い、生活リズムを調整する毎日を送っている。そこでわたしが思いついたのが、いちごパフェを手作りすることだった。その何日か前に寝つけずに、夜中に見た動画で女の子がいちごパフェを作っていた。女の子がパフェを作る。これほど柔らかで愛らしい繊細な創作活動は、ごく限られているのではないだろうか。と、いちごパフェ作りは、わたしの僅かな乙女心をくすぐったのである。いちごは母に買ってきてもらい、ほかの材料は、概ね近所のスーパーで安くそろえた。百円均一ショップでプラスチックの容器も購入し、本格的なパフェづくりの準備は整えた。
些細なことで体調と気分が、大きく左右するわたしにとって活動するというのはなかなか難しい。それでも材料はあるし、妹は明日に来る予定だ。作るには今しかない。とりあえず、クリームチーズをガラスのボウルに移して、常温で柔らかくすることにした。他の材料と容器も出しておく。ああ、用意だけでも疲れた。ここから二時間半、わたしは、人生初のパフェ作りに向けて、体力が回復するまで待機することになる。この日は午前中晴れ、午後からは小雨。天気の急変で頭がぼうとする。薄暗闇の中を大きな重たい帽子を被って、手探りで歩いているような気分である。頻繁に体力と脳のキャパシティは、太平洋ほど欲しい、そうすれば働けるのに、働いていれば京都の洒落たカフェで、優雅なアフタヌーンティーを嗜みたい…などと考えてしまう。しかし、今のわたしに金銭的余裕もなければ、感染症の蔓延する、このご時世ではいろいろと憚られる。
わたしは実現不可能な空想から離脱すべく、テレビの電源をつけた。この時間帯はよくワイドショーが放送されている。つまらない世の中を映しては騒ぎ立てるだけの番組としか思えないのは未熟なのだろうか。高齢になれば面白く感じられるものなのだろうか。今は録画した古いアニメの再放送が割に合うような気がする。もちろん、アニメばかりを観て、のんきに過ごすわけにもいかない。すぐ自立できなくとも、わたしは今できることをして、進まなくてはならないのだ。時折、焦りや不安も感じるが他に方法はない。息抜きができたら次に進み、また少し立ち止まって進むことの繰り返しだ。
テレビをぼんやり眺めているうちに、体力と気力が戻ってきた。夕方、わたしは再び台所へ向かう。これからがいよいよ、本格的な作業だ。室温に戻したクリームチーズに、レモン汁と砂糖を加えて混ぜ合わせる。…少しかたい。電子レンジでほんの一瞬だけ温めるが、結局、室温で冷えてかたまってしまう。まだ春の初め、肌寒さが残る。クリームチーズは、多少ねっとりとしていた方が好みなので、かためでも、まあよしとしよう。それから生クリームを冷蔵庫から取り出して泡立てる。冷えていた方が、ツノの立ちやすい美味しいホイップになる。乳製品をできるだけ控えているため、豆乳の生クリームを使った。味見すると、あまりにもあっさりとしすぎている。どうやら砂糖を入れ忘れたらしい。料理というのは難しいなと、砂糖を加えつつ思う。手間暇を惜しまず、手順通りにやっていくのは、簡単そうで抜けがちだ。しかも、意外と思い通りにはならない。何かを創ることに必ず付きまとう「思ってたんと違う。」という感覚を忘れてはならない。材料の準備が出来れば、いよいよ盛りつけの作業に入る。コーンフレークを器の底に敷いてクリームを絞り、薄く切ったいちごを飾っていくのだ。ところが、この作業がまさしく「思ってたんと違う。」難しさ。いちごの水分を拭き忘れると、滲んでしまう、断面をよく観察していないと、形が歪んで美しくできない、クリームにいちごを押しつけ過ぎると、いちごが隠れてしまう。そんなこんなの失敗で、初手は辛うじて形ばかりのものが出来上がる。それでも、二つ、三つと作り続ければ上達して愉しくもなってくる。すべて作り終えた後には、ささやかな達成感と洗い物が残る。動画で見たお料理上手な女の子には敵わないが、遠目で見るとある程度の良いものが仕上がった。
それにしても、パフェとはこれほどまでに、可愛らしかっただろうか。人類で初めてパフェを作った人は、一体どのような心持だったのだろう。わたしと同じように感動しただろうか、それとも、次はもっとうまく作ってやると意気込んだだろうか。低めのグラスに盛ったパフェは、なんだか不格好で味見ついでに腹の中へ収めてしまった。程よい酸味のクリームチーズ、あっさりした豆乳のホイップ、パリパリとした食感のコーンフレークは、主役の宝石のような小ぶりのいちごの甘酸っぱさを引き立たせ、それぞれが、口の中で共鳴し心地よい調和を生んでいる。美味しい。ホイップが緩んでしまったが、まあ許容範囲内。今度は、もっとしっかりと泡立ててみようと、もう既に、次のことまで考えてしまっている。作るまでは、パフェなんて値段の割に合わない、安直な食べ物だと思っていた。ここまで奥深いデザートだと、分かるとお店のパフェも食べてみたくなる。限られた体力、気力、そして限られた時間を使って出来た傑作のパフェたちを、冷蔵庫の中にそっと入れた。明日、妹に食べてもらうために。
翌日、手作りパフェは大好評だった。妹は美味しいと言って食べてくれた上に写真まで撮ってくれた。母も気に入ってくれて、ぺろりとたいらげていた。父は「喫茶店で、売れるのじゃないか。」とにこにこしながら言った。こうして、家族で同じ話題で盛り上がって和んでいると、この幸せを感じられることも、今のうちなのかもしれないと思った。時がたてばいろいろなことが変わる。みんなで良い方向に変わっていきたい。最近は、自分の作ったもので、人を感動させる仕事がしてみたいと思うようになった。今までのように誰かの望む人生ではなく、自分が本当に生きたい道へ日進月歩、今日も、わたしは何かを創る。
第1回「徒然」大賞 全作品集
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