一般社団法人日本障がい者就労支援協会(JDWSA)

「たより」大賞

古語で「たより」とは、現代語に訳すると、①頼れるもの。よりどころ。②縁故。③手紙。④便宜。⑤機会。等の意味となります。そこで、「たより」大賞とは、支援者が障がい者の支援をして就労に結びついた、もしくは障がい者が支援をしてくれた人に手紙でお礼を伝えるという意味を込めて、「たより」大賞と命名されました。


第三回「たより」大賞応募要項

応募資格①障がい者の就労支援に携わっている方どなたでも。
②障がい者で就労に結び付いた方どなたでも。
(会員の方でなくても応募可能です)
応募内容①(支援者)支援対象者を就労に結びつけることができたエピソード。
②(当事者)就労に結び付くまでのエピソード。
(文字数は特に定めておりませんが、目安として2,000文字程度ぐらいまでと、お考え頂けたらと思います。)
応募期間令和4年12月1日~令和5年2月28日
応募方法下記の「応募する」から応募して下さい。内容はWord文書、テキスト文書のどちらかを添付ファイル(10MB以内)として送信して下さい。
発表時期令和5年4月頃
発表場所当ホームページ内で支援者部門、当事者部門ごとに「最優秀賞」「優秀賞」を発表させて頂きます。
賞品[最優秀賞] 賞状、副賞:賞金(10,000円)
[優秀賞]    賞状、副賞:賞金(3,000円)
注意事項 ①応募された作品の著作権は応募者に帰属しますが、当協会が応募作品を使用することを許可することとします。また、協会誌に掲載させて頂くことがあります。
②選考基準等に関しては、一切お答えできませんのでご了承下さい。
③応募者多数の場合は、締め切り前でも締め切らせて頂く場合があります。
所定の応募方法以外での応募に関しましては、選外とさせていただきます。
⑤一旦、応募された作品はキャンセルすることはできません。
お電話での、お問い合せはお答えすることができません。
⑦お名前、住所の所に本名、実在の住所を入力しておられない場合は、入賞した場合でも賞状、副賞は送付する事はできません。
⑧住所の欄に事業所の住所を記入している場合は、住所欄に事業所名を入れる等工夫して下さい。送付したものが返送されてきた場合でも再送はできません。


第三回「たより」大賞結果発表

応募総数:17通
支援者部門最優秀賞:該当無し
優秀賞:該当無し
当事者部門最優秀賞:田上 智佳士 様(熊本県)
優秀賞:江藤 綾 様(大阪府)

(令和4年12月1日~令和5年2月28日)



当事者部門
最優秀賞

当事者部門 最優秀賞 賞状

田上 智佳士 様(熊本県)
「等身大の障がいとの軌跡」

 「あなたは統合失調症です。」
 この言葉を聞いてから、11年の星霜が流れた。この12年、私は艱難辛苦の軌跡を生きてきた。発病して家庭崩壊、仕事の辞職、薬害、自殺未遂、入退院の繰り返し、就労。
 発病時、私は熊本県警の警察官であった。
 平成23年の春、署内の人事異動で交通課に配属され、毎日多忙な時を過ごしていた。
 その渦中、同年の春管内で死亡ひき逃げ事件が勃発した。私は、現場に赴き交通整理や現場の状況の捜査等を行っていた。その事件は、深夜の当直体制下に起き私が担当の事件となったのだ。
 交通課の新米であった私は、その事件の捜査の重責に耐えることが出来なかった。心身共に疲弊化し、事件発生の半月程で幻聴の症状が発生したのだ。
 上司にその旨報告し精神科に行くよう勧められ、当時の妻と1歳になる息子と共に受診したのだ。精神科医から統合失調症の判断が下されて、約1か月の自宅療養を勧告されたのだ。
 その日の夜、初めて飲む精神薬に対して、統合失調症だと信じられず抵抗があった私は飲もうとしなかった。しかし、妻がこう諭したのだ。
 「薬飲まないと治らないよ。飲んで。」
 ある意味、やけくそでその精神薬を飲用したのだ。その刹那から薬と統合失調症の軌跡との風霜が始まったのだ。
 多剤多量療法の精神科の浸漬により私は、種々の多量の薬剤を服用していた。仕事を休み家庭で過ごす毎日に焦燥と不安が襲い、仕事に一日でも復帰したいと願っていたのだ。
 しかし、幻聴の悪化と家庭内不和が起こってしまい離婚する事になったのだ。そして息子の親権は前妻に譲る形で進み悲壮な運命を辿る事になったのだ。
 そのような中、私の為に尽力してくれたのが母だった。幻聴の状況が悪化し、初めて精神科の病院に入院する事になったのだ。母はこう諭した。
 「あんたが死んだら私は死んでも死にきれん。」
 母は、涙を流す中、病院のロビーで別れたのだ。その母の背中に私は眩しい哀愁の念を感じた。涙とは人を憚ることなく時に人知れず流れるものだと私は思っている。母の等身大の表情と言動に私は、憐憫の情を紡ぎ希望を未来に託さねばならないと自覚したのだ。
 そして初めて精神科での入院生活が約3ヶ月始まったのだ。私は、当初から入院生活に馴染めなかった。それは精神科での活動の契機に存在する。精神科では日頃から簡単な自己活動が行われる。私の場合は、トランプや将棋やカラオケや塗り絵やバレー等であったのだ。
 そのような活動プロフラムに多少なりともの違和感に浸ったのだ。上記の活動をしていても脳内の疾患は治らない。そう私は思っていたのだ。
 私の心象は日々を紡いだ。それは精神科への猜疑と疑念と期待と希望である。それらの心境が交錯する入院生活を送るうちに薬剤の効果から幻聴の波が緩和され入院前より良好の心身状態へと変化したのだ。
 そして、精神科での薬剤治療を推進して行うことで職場復帰に至ったのだ。然し復帰した所、幻聴が再発し入退院を交互に繰り返す日々が断続的に成り、ある日その時職場の上司が述べたのだ。
 「田上君。もう次はないから。」
 その言葉を聞いて私は、自分の運命を諦観した。なるようになる。私は、自分の力ではどうすることも出来ない現実に愕然とした。
 最終的には、県警を依願退職して実家で生活を行う事になったのだ。日々、私は断続的な緩急を齎す幻聴と具合に薬剤の服用でつきあっていた。また趣味である雑記や詩歌を執筆する等の趣味を実践して、毎日を過ごしていた。
 然し平成26年3月、過度の幻聴により実家近辺の公園の公衆トイレで首吊りの自殺未遂になったのだ。一命を取り留めた私だが、助かった理由があったのだ。それは、県警の同僚だった上司が公園をランニング中、私の不自然な表情に違和感を覚え助けてくれたのだ。そして、私は精神錯乱の中救急センターに搬送されたのだ。
 目を覚ました時、私は病院のベッドに寝ていた。両親が見舞いに来た時、自分の命を救ってくれた上司にお礼の感謝を伝えたい旨、両親に尋ねたが、自分の命が助かっただけで充分だとその上司は両親に伝言したのだ。
 この自殺未遂を契機に私は、精神科の病院を転々として多剤多量の精神薬の治療をしていた。悪影響として私を苦悶させたのは精神薬の弊害を持つ薬害であると思料される心身の違和感である。
 その違和感とは、唾液が止まらない、身体が痺れる、頭が揺れる等の副作用である。ある精神科の病院に通院していた時、その精神科医はこう私の副作用と思われる状況に問答しこう答えた。
 「原因が分からない。」
 赤面して顔を伏せたその医師に私と母は無言で治療室を出たのだ。その刹那、母は私にこう言葉を発した。
 「先生は縁を切らした。今の西洋医学では駄目、東洋医学で病院を探してみるから。」帰途に着く助手席で私は死を覚悟した。
 後日、私は母が運転する助手席に乗り、東洋医学専門の心療内科へ赴いた。待合室で私は、心身の違和感に耐え絶望の淵にいた。
 誰も治せない、そう思い込んでいた私が呼ばれ診察室の中に入室すると小柄な中年の男性の心療内科医と対面し診察を受けた。診察の結果、精神薬から漢方薬に薬剤を変更したのだ。
 然し、精神科医に対して猜疑心を抱いてた私は、その心療内科医の言動に疑義を呈し問答した。
 「それで治った人いるのですか?」
 「いるからやってる。」
 「信じられません。」
 「診察終わり。」
 私はその心療内科医を信じるしか方法がなかった。母もこう諭した。
 「先生の診察を信じるしかなかよ。」
 私はその診察を契機に精神薬から漢方薬に薬剤を変更して日々を過ごした。幸運にも漢方薬が有効に効き、精神薬の副作用は緩和したのだ。
 しかし幻聴が、断続的に緩急を交錯し症状が露呈した。精神薬も漢方薬も治癒出来ないその症状に母は諦めていなかった。
 今私は、母の情報収集し選定したある精神科に通っている。現在から約3年前その精神科の医師と出会ったおかげで私は、幻聴等の症状が無くなり得たのだ。その医師との一期一会の出会いは、私にとって晴天の霹靂であった。脳への電気治療や薬剤の緻密な処方により寛解の域にまで改善したのだ。
 現在私は、高齢者介護福祉施設で仕事をしている。幻聴は無くなり車の運転も出来るようになった。介護ヘルパーの資格を取り仕事に対して意欲が湧き、充実した日々を過ごしている。
 母とその医師がいなかったら今の私は存在しない。統合失調症の私の軌跡、それは苦悶の渦中に孤高の希望に馳せる生き甲斐を見つけ実践することである。
 そして私の今の生き甲斐は、高齢者介護福祉施設の利用者から感謝される仕事をする事である。何故なら、母と今の精神科の医師に感謝しているように、今度は私が感謝されるような人間にならなければならないと自負しているからなのだ。
 私が仕事をする際、気を付けているのが同僚や利用者への挨拶だ。感謝を込めて挨拶をすれば感謝をされて呼応へと帰結する。挨拶は、私にとって人間関係を構築する際の潤滑油なのだ。
 私の生き甲斐、それは利用者が見せる破顔である。利用者の破顔への軌跡、それは私の生き甲斐へ辿る利用者からの感謝の気持ちに湧く沙汰である。
 沙汰とは、利用者からの心の発露の軌跡であり、その軌跡に真心を込めて利用者との縁を大切にして相対する。その気概こそが肝要であり、私の生き甲斐に通底する愛の様相であるのだ。
 私にとって愛とは、万人への尊重を凝る義へ馳せるその軌跡に内包された命の虚無である。虚無とは、万人にとっての等身大の価値に規定された範疇に掲げる無字への紡ぎなのだ。
 紡ぎ。それは、統合失調症の私にとって不退転な過去から辿る情景からの影響を示唆する軌跡なのだ。
 私の軌跡は、十人十色の浸漬に対して喜怒哀楽を醸しながら等身大の気概に耽り、善なる行動を実践し多様な絆を保持し創造する事である。
 等身大の障害者である私の命、一度は喪失された軌跡であったが、今度は私が私に関与する人々に対して感謝されるような人間性を構築したい。
 そして、私を助けてくれた人への感謝を穿つ軌跡であり感謝であり創造である営みを馳せ風霜に耐え生きていかなければならない。感謝に耐えられない感謝を感謝として感謝に励むその意志を私は、今惹起する余韻に浸っている。
 虚飾なきりのままの精神疾患の私の運命とは、人生はなるようにしかならないとの通念を持ち、命の諦観をして人間力を創造する過程、それが人間に課された能動的な喜悦を齎す私の軌跡なのだ。
 私の軌跡と言う道程に感無量。私は命の鼓動が止まるまで生を謳歌し介護への生き甲斐を紡ぐ所存である。そして紡ぐ事こそが、今までの私に携わった人々への感謝を繋ぐお礼へと映えるのだ。
 幾星霜の日々へさようなら。そして命の機微を糧に未来へ馳せる深遠な縁と信念にありがとう。私は生きる。


優秀賞

当事者部門 優秀賞 賞状

江藤 綾 様(大阪府)
「フツウになろうとしていた私へ」

江藤 綾

 フツウになろうと頑張る必要なんてない。私は私なんだから、病気や障がいを隠して、世間が言うフツウのフリをする必要なんてないと、10年後の私は思うよ。

 今あなたは、病気や障がいを隠してパン屋さんで働いているけれど、仕事が覚えられないし、効率が悪いという理由で男性社員から毎日仕事が終わったら叱責されているよね。そこでは、人に対して言ってはいけない言葉が、毎日私を突き刺していたけれど、それでも手にした仕事に食らいついて毎日出勤しているあなたは偉いよ。でもフツウを取り繕ったって、無理をしているわけだから続かない。ストレスで胃を痛めて退職したときは、安堵したと同時に「私には皆のフツウができない。」と泣いたのを今でも覚えているよ。

 皆のフツウを取り繕ったって、フツウにはなれない。だって私は障がい者で、病気を抱えているんだから、これはもう仕方がないことなんだよ。だけど、仕方がないで終わらせるんじゃなくて、だったら、どうすればいいんだろうかと考えてみてはどうだろうか。

 例えば、私はルールを覚えることや守ることが苦手だ。それができなくて、これまでいろんな仕事をすぐに辞めてきたけれど、だったら自分でルールを作って守るようにしてみたらどうだろうか。あなたは勉強もできない、仕事もできないと、自分には何も無いように思っているけれど、あなたには才能があるよ。

 「こんなこと何の役にも立たない。」と言われた作文を書くのが好きという才能は、10年後の私の仕事になっている。何事にも向き不向きがあって、私には会社という組織で働くことが向いていなかっただけ。組織に属するのが苦手なら、自分で小さな私だけの組織を作ってしまえばいいんだよ。

 それにもっと驚くことがある。10年経てば、あなたは妻で母親になっている。そして、文章を書くことで家族の生活を支えられるようになっているんだ。びっくりでしょ?私には何もできないと悩んでいた時期があんなに長かったのに、私にはちゃんとできることがあったんだよ。

 時代は目まぐるしく変わっている。働き方も多様性を極めている。だからね、周りが「こうするべきだよ。」「それがフツウだよ。」「それがあなたの幸せなんだよ。」と言ってきても、信じてはいけないよ。まずは、あなたがどう思っているのかが大切。そして、あなたがやりたいことは何でもやってみることが大切。

 百聞は一見にしかず。どうか自分に絶望しないで。あなたにはあなたにしかできないことがちゃんとあるから。

10年後の私より


[備考]
 現在32歳、個人事業主(フリーランス)として働く私が、当時22歳パート従業員として健常者のフリをして働いていたときの私に向けて「たより」を書きました。
 私は高校2年生のときに発達障がい(当時はAD/HDとLDと診断を受けていましたが、現在はASDとLDです)と診断を受けて障がい者手帳を取得しました。
 成人式の翌年に生活保護を受けて一人暮らしをして、その翌年には生活保護を受けながらパン屋さんでパート従業員として働いていました。自分が世間で言うフツウではないと自覚していたから、障がい者雇用ではなく一般雇用として働いていましたが、あまりの仕事のできなさからパワハラの対象になりました。
 人生を諦めるかどうかの瀬戸際だった時期だったので、未来の私にしか伝えられない言葉をたよりにしました。


第三回「たより」大賞 全作品集

応募全作品集は、正/賛助会員専用ページ で見ることができます。正会員および賛助会員でない方は、寄付のお願い から、500円以上寄付して頂いた方に送付させていただきます。お問い合せ欄に【第三回「たより」大賞 全作品集 希望】とお書きください。


第二回「たより」大賞結果発表

応募総数:30通
支援者部門最優秀賞:藤原 光 様(神奈川県)
優秀賞:南 善文 様(鹿児島県)
当事者部門最優秀賞:ふゆさん 様(千葉県)
優秀賞:三枝社 様(神奈川県)

(令和4年1月1日~令和4年2月28日)



支援者部門
最優秀賞

支援者部門 最優秀賞 賞状

藤原 光 様(神奈川県)
[足がないのに足手まとい]

 「足手まといになっちゃったよ、足無いのにな!」
 1年程前、在宅勤務用にカスタマイズされた机の、27型の外型ディスプレイのZoom会議の画面越しに大介は言った。威勢よく言っていたが、目は座り、口角は上がっていなかった。大介は高校の同級生で、メガネの似合う彼はバスケ部のキャプテンだった。有名大学の理工学部に進学。航空工学の研究をして、大学院ではアメリ国際会議で成果を発表した。有力大手企業に推薦で内定し、航空関係のエンジニアになったようだ。大学でもバスケを続け、インカレでも活躍し、学内報にインタビューまで載ったプチ有名人。羨望のまなざしを向け、一目置かない人の方が珍しかった。
 かたや、同じ高校とはいえ写真部の幽霊部員で、勉強もそんなに出来なかった私。画像処理に憧れたが受験の数学で挫折。文転し、辛うじて同じ大学の商学部に滑り込んだ。大学デビューを試みようとテニサーに入ったものの新歓合宿で馴染めず、華やかな大学生活とは1年生の5月でドロップアウトした身からしたら、大介には嫉妬も感じない程、何もかも眩しかった。実際、大介と同級生であることを隠していたかったが、バレバレであった。キャンパスで見かけると、大介が「よっ!」と無邪気に挨拶をしてくるからなのだが。
 私は典型的な人気就職先の商社や銀行を受けはするものの、箸にも棒にもかからず、結局、第四志望群の中で内定が出たウェブ系の企業に就職した。仕事はプログラミングをしているウェブエンジニア。コロナ禍で唯一良かった事は、ずっと在宅勤務が出来る事くらい。日陰者にとって、飲みニュケーション程ウザいものは無い。Zoom会議をする3日前、大介から久々にLINEが来た。いつぶりだろうか。桜吹雪が舞う卒業式の日に、並木道の前で記念写真を、同じ高校から進学した6人位で取った時に一言二言交わしたのが最後だろうか。
「俺、右足無くなっちゃった(笑)。」
 また何の冗談だと思い、信じなかった。大介が右足を持ち上げてZoom会議の画面に見せるまでは。大介は数カ月前に交通事故に遭い、右足の膝から下を失ったそうだ。いじめてきた奴がそうなったのなら、にんまりと満面の笑みで、全身全霊のガッツポーズをしそうなところだが、大介には同情の念しかなかった。
「なんで事故になったの?」
「え?ところで、最近のウェブのエンジニアって転職どうなの?」
「どんどん敷居が下がっている感じ。プログラミングできる人って、最近増えてきてるし。結局は数学の素養が重要な気がするよ。だから大介には向いていると思う。それで、事故は?」
「なら良かった。もう少しプログラミングについて学んでみるわ。」
 大介は最後まで交通事故の理由には答えようとしなかった。大介のメガネは、汚れて靄がかかっていた。
 大介の当時の仕事は、特殊設備が多く、車いすや義足は現場に入れない。すぐに配置転換され、事務の仕事に転換されたようだ。しかし明らかにお荷物で、哀れむ目で見られたそうだ。たったそれだけで有名大手企業を辞めてしまったらしい。そこで、足が無くても影響を受けないと考えたプログラミングを始めて、IT系のエンジニアに転職しようとしていた。ウェブ面接ではスムーズにいくものの、現地の面接に行き、右足がないことを知ると、サーっと態度が変わった例が多かったらしい。不採用の理由は、コミュニケーション能力とか、プログラマーとしての経験とか言っていたらしいが、足が無いのにギョッとしていたのは、肌で感じ取ったようである。それで転職活動が上手くいかずに、私に連絡をしてきたということだった。確かに足場が特殊な業務なら、相手にされないのはまだ分かる。しかしプログラミングは、足があるかどうかなんて仕事には全く関係がない。在宅勤務なら尚更である。それでも何かと理由をつけて門前払いにしようとする。大介の気持ちも強烈なものだっただろう。特に学生の時から何をやっても、何をやっても、どこへ行ってもエースだった彼にとっては。
 私は、知る限りで車いすの社員が在籍している会社と、裁量制でフルリモートが認められている会社をいくつか紹介した。結果として一瞬で内定が出たようだ。彼が入社したのは、フルリモートを認めている会社だった。どうやら面接をした人達の中で、足の話をした人以外は、大介に右足がないのを知らないらしい。コロナ禍で他の社員と会う機会もないから、それもそうなのかもしれない。
 大介が就職して丁度1年位経った後、またZoomをした。大介は、すっかり職場の人気者になり、すぐに昇給もしたらしい。多様性が求められる社会で、徐々に障がい者の地位も確立されてきたように思っていた。それでも、まだまだ差別だと感じる部分は多いようである。将来はそういう人材も積極的に採用する会社を起業して、障がい者の居場所と生きがいを確立していきたいらしい。
「不意にも障がい者の分野は、良い人材を獲得したね。」
「やっぱ足を無くすのが一番分かるよ!またヘマって事故って、今度は左足もなくならないようにしないと!」
 メガネはもう曇っていなかった。


優秀賞

支援者部門 優秀賞 賞状

南 善文 様(鹿児島県)
「このままじゃいけない」

 障がい者就労支援施設の施設長の急な退職で、同一法人の病棟看護師から異動となった。51歳で看護師国家資格を取得する前に約三十年間、企業で営業から製造、事務全般を経験しており、その体験から就労支援は容易なことだと高を括っていた。そんな中、長い間引きこもりをしていたAさんが、父親に連れられ施設に見えられた。20代後半で色白で痩せており、まだ中学生に間違われるような風貌であった。通所してからいつも始業時間ぎりぎりに作業所に来て、作業が始まっても部屋の片隅でモジモジしていた。作業を促しても返事はなく、その場にずっと立ち尽くしている。一緒に作業の場所へ行こうと促すと、部屋の中心部まで歩くものの直ぐに部屋の片隅に引き返すことの繰り返しであった。ただ不思議とAさんは、そんな状態ながら一日も休まずに施設に出てきていた。
 14人の専門職員で支援方法を真剣に模索した。行動変容や動機付け、細かいマニュアルの作成等あらゆる手法や文献を駆使して支援を実践するが、微妙な変化はあるものの、目に見える変化はなかった。やり方を変え、人を替えて実践するが結果はでない。それでも誠実に支援していれば、いつか必ず変わるという信念でスタッフ全員が創意工夫の支援を繰り返した。しかし数ケ月経過しても変化はなかった。私の中に支援の限界という諦めの気持ちが過ぎる頃、突然Aさんに変化が現れ始めた。スタッフや他の利用者とのコミュニケーションすることはないが、作業前の準備ができるようになり、作業にも参加できて自分のパートを確実にこなせるようになっていった。心待ちにしていたAさんの変化にスタッフ全員で喜び、感情が高ぶり涙するものもいた。スタッフも嬉しい変化であるが、「何でここまで変わることができたのだろう。」と率直に理由を聞いた所、「年下の従弟が就職して、このままじゃいけないと…。」この言葉に私は愕然とした。利用者は、悩み苦しみの中で必死にもがき彷徨っている。その一方で支援者が、利用者に潜在する思いを汲み取れず支援者の考えている枠を押し付け、支援者発信になり過ぎて利用者から利用者自身の人生の主役の座を奪っていた。利用者の意欲を高め選択肢を提案し利用者の意思で行動を起こすように導く必要性が痛感された。「このままじゃいけない」利用者の前に、まずは私が変わる必要があることに気付いた。


当事者部門
最優秀賞

当事者部門 最優秀賞 賞状

ふゆさん 様(千葉県)
「当事者として感じたこと」

  私は、看護師として働いている。
 今から10年くらい前だっただろうか。大学を卒業してすぐに働いた病院では、夜勤が始まったあたりから睡眠のコントロールが付かなくなり、仕事でのストレスも相まって、どんどんと心身の調子を崩してしまった。まるで、ガラガラと崩れていくような、闇に吸い込まれていくような感覚だった。しかしながら、周りにはそれを知られまいと、努めて明るく、またミスをしないようにと振る舞った。そのうちに、どんどんとココロも身体も蝕まれていった。夜も眠れず、目の下にクマを作りながら仕事をしていた。もはや、どちらが看護される側なのかわからない。そんな笑えないブラックジョークとツッコミを自分にしながらも、当時はカラ元気と若さで、その日その日を必死に乗り切っていた。どこかで、負けたくないという気持ちや、まだ1年目だから、という焦りがあったのかもしれない。しかし、その時はやってきた。ある日の朝。いつものようにアラームが鳴る。でも、身体が動かない。アラームが、私をたたき起こす。止めても止めても、「さあ、起きろ!」と言わんばかりにスヌーズが作動する。
 しかし、身体が起こせない。頭ではわかっているのに、起きられない。この、金縛りにも似た感覚。その日から、パタリと仕事に行けなくなってしまった。騙し騙し、フル稼働していた身体とココロが「もう騙されないぞ」とストライキを起こした瞬間だった。仕事に行けない自分自身を「負けた」と責め、涙を流す日々が続いた。ついに、うつ病と診断を受け、休職。当時の自分は「負けた」と思った。就職して1年目、労働社会というコミュニティに白旗を振っていた。そして、投薬治療が始まった。休職の間、いろんなことが頭を駆け巡った。当時、まだ1年目の新人。まだまだこれからの時なのに。何故、と。これからどうしようか、とも。結局、3ヶ月の休職を経て、退職。転職活動を始めた。看護師を辞めたい、とは思わなかった。面接で、「何か薬は飲んでいますか?」「持病等はありますか?」と聞かれる。素直に答えると、その瞬間にお断りされてしまう。何度苦汁を吸っただろうか。世間とは、働くとは、何ぞやと、悲しくなった。そして、何度目の面接だっただろうか。そこでは、持病のことや服薬のことは何も聞かれなかった。私は、正直に今までのことを話し、服薬についても話した。すると、面接をして下さった看護部長が、こう言った。「薬飲んでようと何だろうと、働けるのなら、それでいいじゃないの。薬の有無なんて、関係ないの。うちのスタッフにも薬を飲みながら頑張ってる人達はたくさんいる。皆、同じよ。うちの病院で、もう一回やり直してみる?」と。
 どこか氷のようになってしまった、ココロにへばりついた霜が、溶けた瞬間だった。気付けば、「よろしくお願いします!」と頭を下げる自分がいた。命を預かる看護師としての仕事は厳しい。しかしながら、厳しいながらも楽しさや喜びも人一倍ある仕事であると私は感じている。私は、その看護部長から「人間の温かさ」を学んだ。「皆、同じよ」。その言葉に、今も昔も助けられている。そして、その言葉があったからこそ、福祉についても考える機会が増えた。今は、社会福祉士の資格を取得し、医療と福祉を繋ぐために、自分に何ができるかを考えている。自分の経験を通じて、病気と向き合い、「治すこと」に躍起になるのではなく、「どうやって上手く付き合うか」がとても大切なことだと感じている。ココロは目に見えない。例えば採血をしたところで、検査データを見て、良くなったとか悪くなったといった視覚的な判断が難しい。正直なところ、自分自身の状態が視覚化できないことや、一進一退の日々を繰り返すことで先がなかなか見えないというのが、精神疾患の厄介なところと感じる。また、休職等で社会から離れることで、疎外感や孤独感に苛まれてしまう。社会復帰においては、家族や医療者等、様々な支えが非常に大切であると思うし、周囲の理解も必要と思う。「皆、同じよ」という言葉は、そのような意味でも私にとって非常に支えとなる言葉だった。あの時の自分のように迷い、佇む人に対して、今度は自分が同じ言葉をかける番。その言葉を時折思い出しながら、今も看護師として働けることに、日々感謝しながら過ごしている。


優秀賞

当事者部門 優秀賞 賞状

三枝社 様(神奈川県)
「感謝!感謝!!そして感謝!!!」

1.はじめに
 今回このような素晴らしい機会を頂き大変嬉しく思っております。少しでも皆さんにご参考になればと思い私の経験を振り返ってみたいと思います。
2.苦しかった闘病生活、でも楽しかった闘病生活
 まず私の病気は、難病45に指定されている「好酸球性多発血管炎性肉芽腫症」というもので、簡単に言うと免疫疾患です。発症したのは2017年2月で、残念ながら私の場合は重症で手足の機能を2週間で完全に失いました。始めはこの変化に心がついていけず、何故私だけがと悲観的なことばかり考えてしまい、現実を受けとめるまで辛い期間がありました。入院生活は10か月にもわたり、1年目は入院生活、2年目は入退院の繰り返し、そして3年目からは体調が落ち着きリハビリに集中することができました。振り返ると3年半もの長い期間も休職することになっていました。この長い休職期間の中で、今までに経験をしたことがない色々な経験をさせて頂きました。
(1)入院中、妻は片道1時間程度かかる病院に毎日来てくれて、退院後も慣れない看病を一生懸命してくれました。
(2)病院の先生に献身的に、その時々の最善の治療をして頂きました。また沢山の看護師さん,補佐さん,リハビリの先生には友達のように接して頂き、動かない体がいつか動くと信じて、手首をサポータで保護し筋が伸びないように、また尖足にならないよう常に足先にクッションを入れて下さり、家族のように接して頂けました。
(3)入院中、また退院後も会社の同僚、学生時代の友人、海外の仲間から絶え間なくお見舞いに来て頂きました。休職しているにもかかわらず、「社会とつながっているんだぞ、早く社会に戻ってきなさい。」という前向きな気持ちにさせて頂けました。
(4)退院後には、相談員さん,ヘルパーさん,訪問入浴,訪問リハビリ,マッサージ,デイの皆さんに社会復帰のために多大な時間、献身的にサポート頂けました。
(5)病気なのは私一人ではなく、沢山の方が病気と闘っていることを知り、その方達とのコミュニケーションも大切にし、楽しい時間を共有することができました。
 このような恵まれた環境に感謝しつつ、自分の気持ちがだんだんと前向きに変化していることがわかりました。そして、苦を苦しく思うのではなく、試練だと思い、無理なく努力を継続、そして喜びを見つけることができました。一つ目は、希望を持たせてくれ助けて頂いた方々、福祉制度になんとかお返ししたい、しなければならない、そして二つ目は、妻の介護を少なくさせて少しでも楽をさせたい、ということです。昔からの私のモットーは3つで、①ネバーギブアップ、②チームワーク、③改善(今の自分に満足しない)で、これを今の自分に当てはめてみると、①目標を持っていれば必ず叶う、②しかしこれは自分一人では無理、沢山の方に助けて頂いた、③動かない体が少しでも動くようにこつこつとリハビリを継続する。これを忘れず、毎日少しずつ継続することにより、子供の時みたいにやっていれば少しの変化も嬉しい、周りの皆さんにも喜んでいただける→やる気がでる→正のスパイラルになっていることを再認識しました。
3.復職に向けて
 目標はできました。ここからは実際に社会復帰に向けて実施したことを振り返りたいと思います。まず、計画を立てることが必要だと思い、ざっくりと計画を立てました。いつ会社に復帰したいか、それに向けて必要なことをリストアップです。私の場合、①生活面、②会社での就労面の二つに分けリストアップしました。
(1)生活面
 社会復帰に向けて、どのようなものが必要か、体調管理、気持をどのように向上、維持しているのか、相談できる方皆さんに相談し、方策を考えました。
(2)会社での就労面
 会社での必要最小限のことをリストアップし、繰り返しリハビリを実施、進捗内容を細かく書いて見える化しました。見える化することにより、訪問リハビリ、マッサージ、デイ、会社上司、同僚、友人の皆さんと一体感を感じることができ、楽しくリハビリをすることができました。
4.復職面談
 いよいよ復職に向けた面談です。皆さんの多大なご協力により、やるべきことはやりました。しかし、残念ながら体は完全に回復はできず、手足の障がいが残っており、発病前のように自由がききません。復職に向けて大切なことは以下だと思います。
(1)社会復帰したい自分の気持ちをちゃんと伝えること。
(2)出来ること、できないことを明確にし、サポート頂きたいことを明確に伝えること。
(3)とにかく粘り強く。
 上記の事を自分でしっかり持っていれば、会社の上司、同僚、産業医、人事には必ず理解をして頂けて、助けてくれます。
5.現在の私
 最終的に、2020年9月に障がい者枠で復帰させて頂くことができました。会社は私の病気の状態、現在の障がいの程度をよく理解して頂き、1日5時間、週4日、合計週20時間で、皆さんの多大なご協力のもと楽しくお仕事させて頂いております。また、復帰後もリハビリ、訪問入浴等、生活に必要なことも優先的にさせて頂けて、体調管理、体の動きの向上に努めています。
6.最後に
 とにかく、一人ではなにもできません。沢山の方々に助けて頂きました。「辛かった時期に助けて頂いた方々へ少しでも恩返しをしたい。また少しでも社会貢献、会社への貢献をしたい。」。そのために感謝の気持ちをいつも心に収め、自分のモットー3つを大切に、これからも楽しい人生にしていきたいと思っています。「感謝!感謝!!そして感謝!!!」。皆さんに本当に感謝しております。ありがとうございました。また、引き続き宜しくお願い致します。


第二回「たより」大賞 全作品集

応募全作品集は、正/賛助会員専用ページ で見ることができます。正会員および賛助会員でない方は、寄付のお願い から、500円以上寄付して頂いた方に送付させていただきます。お問い合せ欄に【第二回「たより」大賞 全作品集 希望】とお書きください。


第一回「たより」大賞結果発表

応募総数:14通
支援者部門最優秀賞:該当者無し
優秀賞:三宅 隆吉 様(福岡県)
当事者部門最優秀賞:波上カケル 様(神奈川県)
優秀賞:ゆいみょん 様(埼玉県)

(令和3年1月1日~令和3年2月28日)



支援者部門
優秀賞

支援者部門 優秀賞 賞状

三宅 隆吉 様(福岡県)
[誰かに必要とされている]

「両親には迷惑をかけた。親孝行をしたい。」
小さな会社の採用担当であった私は彼の言葉に胸を打たれた。20年前のことだ。
彼は交通事故を起こし、下半身がマヒしご両親に大変なご苦労をかけていたのだった。
面接官の多数は採用に反対であった。20年前には差別意識は未だ強く濃厚であった。私は説得した。同じ人間だ。個人として尊重し、同じ職場の同僚として一緒に働きたい。私も下半身に障害を持つ者である。彼をどうしても採用したかった。
障害者は障害があっても残された機能は研ぎ澄まされ、一般の人よりも成果を残されることが多い。皆の納得は得なかったが、私は彼を採用した。
 彼は期待に応えてくれた。人一倍努力し、ホームページの作成その他事務関係に変化をもたらした、他の職場から指導を願われるまでになった。
「わたしがやらねばだれがやる。」という使命感を支えに頑張っている。
「だれかに必要とされている。」という自覚。
こそが人に自信を持たせ長生きさせる一番の栄養素なのであろう。
 障害者も同じだ。
彼はいつも相手のことを思いやり、人のために働いているような人に成長していった。
このときの感動は言葉にできない。
彼はハンデ―を乗り越え、人間としての生き方を見事に示してくれた。
皆様から示される信頼と期待。これが彼を育てたのであろうと私は思っている。
彼のように、欲を捨て、怒りや妬みや奢りなど、心に纏わりついた垢のようなものを剥ぎ取ることで生命の逞しさは輝きだすのではないでしょうか。
彼の生き方を心に留め、私も自分自身の人生を、謙虚に、たくましく丁寧に生きたいと思っている。


当事者部門
最優秀賞

当事者部門 最優秀賞 賞状

波上カケル 様(神奈川県)
 妻という一番近い存在が最大のサポーターだったというお話です。
発達障害の中でも、アスペルガー症候群という人一倍こだわりが強い特性のため、どんな仕事に就いても続かず、入っては辞めての繰り返しでした。私の気持ちを尊重しつつも、非常に上手く適職に誘導してくれました。

実際には、このような感じです。

妻「プログラミングとかやってみない?」
私「えーっ!パソコンすら触ったこともないのに!」
妻「もし、出来るようになったらフリーランスとして自宅で仕事できるよ。」
私「そうか!満員電車で通勤したり、人が大勢集まる会議に出席したりしなくていいんだね!」
妻「やってみる気があるなら、このノートパソコンを使っていいよ。」

といった具合です。アスペルガー障害のわたしにとって、業務内容そのものよりも重要なのが職場環境なのです。逆の言い方をすれば、環境さえ整えばいかんなく力を発揮することが出来るのです。妻は、私の障害に対する基本的な理解があっただけではなく、私自身も気がつかなかった特性を見抜きました。

とてもマイペースですが、プログラミングに必要なアイデアと集中力を持って産まれていたことです。自分でいうのもなんですが、IT系の仕事に就いているとは言い辛い見た目風貌です。これまでに誰もプログラマーと言う職種を勧めてこなかった理由はこの見た目にあったのかもしれません。

しかし、妻は違いました。具体的に案件までちらつかせ、まるで人参をぶら下げられた馬が一生懸命走ろうとするかのように仕向けたのです。そして、妻の戦略にまんまとハマった私は、エンジニアとして独立し、今なおフリーランスとして多くのクライアント様と契約させて頂いています。

妻は時折、目を細め、20年前を懐かしむようにこう言います。

「家に帰った時に、上半身裸で無心にノートパソコンに向かうアナタを見た時は本当に笑った。」

何を隠そう、未だにキーボードを入力するのに、両手の人差し指しか使えないわたしは、何を言われても、こと仕事に関しては、妻に頭が上がりません。

納得のいく就労に結びつかず、モヤモヤしている方がいましたら、灯台下暗し、まずは、一番身近にいる家族に客観的に自分を診断してもらうのもいいかもしれません。


優秀賞

当事者部門 優秀賞 賞状

ゆいみょん 様(埼玉県)
「私を支えてくれた人、そして病気へ」

美容師として働いていたある日、異変は起きた。どういうわけか手にチカラが入らない。それどころか扉も、ペットボトルの蓋すら開けられない。すぐに病院を受診したものの、原因は不明。やっと診断が下りたのは一年後。私は指定難病である筋萎縮性側索硬化症ALSだった。
仕事を辞めたあと、しばらく自宅に引きこもっていた。だが病気はみるみるうちに進行し、昨日できていたことが今日はできない。そんなことが来る日も続いた。仕事を探そうにも前途多難。「何がしたいか」を問う前に「何ができるのか」すらわからない。いっそこのまま死んだら楽になれるのに。そう考えては自殺防止ダイヤルに電話をし、朝まで泣き明かした。今ならわかる。私は死にたかったんじゃなく、生きたかったのだと。
だが転機は訪れた。ハローワークの方から難病支援センターを紹介されたのだ。そこで出会った支援員さん達は本当に素晴らしい方々だった。明るいうえに、とにかく親身になってくれる。
「どんなことが好きなの?どんな仕事がしてみたい?」
私は最初何も言えなかった。何せこの病気は日に日に身体の筋肉が固まって、動かなくなってゆくのだから。それでも彼女たちは私の可能性を信じてくれた。私の「やりたい」に寄り添ってくれた。

「もともと指先を動かすのが好きでピアノもパソコンも得意です。」

「それなら在宅でできる仕事なんてどうかしら。訓練を積んで条件に見合った仕事を探しませんか。」

こうして在宅訓練が始まった。最初はExcelを中心に事務系のスキルをとにかく練習した。すると意外にも指先がよく動くではないか。何だかパソコンに打ち込んでいる時だけは病気のことを忘れられた。

「さすがですね。そうしたら資格も取ってみませんか。」

私は耳を疑った。病気の私がさらに資格を取るなんて。だけど支援員さんは「大丈夫。一緒にやりましょう。」と言った。何だかその言葉が耳ではなく、胸に響いた。
こうして私はマイクロソフト オフィス スペシャリスト(MOS)の資格を取得した。eラーニングのおかげで何度も復習ができて、少し調子が良くない日でも自分のペースで学習ができた。さらに遠隔でも支援員さんがすぐに相談に乗ってくれたことは精神的にも大きい。

訓練をはじめて五カ月。多くの支援のおかげで私は自宅でデータ入力をする仕事に就いた。自分のペースで、しかも自宅でできるというのは、点滴治療のため月に10日通院しなければならない私には好都合。何より自分が得意なことだから苦にもならない。
現在は手で入力をしているが、症状が進行すればそうはいかなくなる。この病気は最後、寝たきりになり、自分ひとりでは本当に何もできなくなる。同じ病気の方が言うには、手足が縛り付けられて、頭だけはしっかり働いている感覚だとか。だからこそ今は音声入力や視線入力についても情報収集をして、残された感覚をフル活用したいと思っている。
それでも手が動くうちにどうしてもやっておきたいことがある。それが同じ病気で苦しむ人の役に立つこと。そんな思いで最近e-ラーニングでライティングスキルを学び、ブログを始めた。
「負けちゃダメだよ。」
「生きるんだよ。」
かつて私がかけられた言葉を、今度は誰かにかける。そうやって発信することで実は自分を奮い立たせている部分もある。だから今は病気を憎んでも、病気がつないでくれた縁には感謝。もはや自力で立てなくなった今、「大丈夫。ひとりじゃないよ」とかけられた言葉が身に沁みて仕方ない。

今なら言えるだろうか。私を支えてくれた支援員さん、家族、そしてこの病気にも。

私を生かしてくれてありがとう。
笑顔にしてくれて、本当に、ありがとう。



第一回「たより」大賞 全作品集

応募全作品集は、正/賛助会員専用ページ で見ることができます。正会員および賛助会員でない方は、寄付のお願い から、500円以上寄付して頂いた方に送付させていただきます。お問い合せ欄に【第一回「たより」大賞 全作品集 希望】とお書きください。